オオサンショウウオは人間みたいな手をしている↑
保護活動をしておられるOさんにご案内いただいてその生態を知ることができた。
※youtubeにUPしましたのでご覧ください
*
己高山(こだかみやま)は仏教がやってくる以前から信仰の山だった。
長浜周辺には「白山神社」がざっと数えただけで十社以上みつかる。
山頂からは日本三大霊場の白山も見える↓絵図の一番上
己高山は仏教伝来以前からの聖山。
平安時代に比叡山から天台宗が広まってくると何十もの伽藍が山いっぱいに広がった。
だが、これらは信長戦国時代時代の戦火で焼かれた。
さらに明治の廃仏毀釈で衰亡した。
ネットや本の解説の多くはここまでしか書かれていない。
しかし、現地の方とお話するなかで昭和に至るまで己高山に多くの僧房が健在だったことを知った。
実際に人が住まなくなったきっかけは、昭和8年の冬に起きた原因不明の火事だそうだ。
どのぐらいの被害があったのか正確にはわからない。
だが、昭和17~18年にかけて鶏足寺の仏像が飯福寺に遷仏された。
人の住まなくなった山の中に立派な仏像が放置されるのはよくないということだったのだろう。
何十ものお像は周辺の村や家々にばらばらに護られていた。
昭和38年に公営の収蔵庫として己高閣がつくられた。
※長浜、米原を楽しむのサイトにリンクします
今回、こちらを見学することができた。
※写真撮影禁止
オオサンショウウオの保護活動をしておられるOさんは己高閣・世代閣を案内をしておれる。
ご自宅はすぐ近く。
サンショウウオが住む清流が流れている。
今回、己高閣・世代閣のご案内をしていただいたのだが、「ちょうど今オオサンショウウオを保護しているのです」ということで、見せていただくことができたのだった。
お住まいのすぐ隣の茅葺屋根の家もOさん宅。
家の前のケージにいたのは、大きなフクロウ!羽を怪我して動けなくなっていたのを保護している。
メスで、夜になると周辺のオスたちが求愛にくるそうな。
玄関を開けたところにいたのも↑元気なホンモノだった。
清流がながれる広い裏庭?へ
この一角に冒頭のオオサンショウウオが保護されていた。
流域に住むサンショウウオには一体一体に識別チップがとりつけられており、現在120個体が確認されている。
大雨で下流に流された個体があると連絡がきて保護しにゆく。
その時に身長・体重・特徴を記録する。
そしてまた自然に戻す。
同じ個体がなんども保護されてきて、その度に大きくなっているのがわかる。
こういう調査は長い年月にわたる辛抱強い記録が必要で、
遠くに住む研究者より地元に住む好事家のほうが活躍する分野だ。
「続けていくうちに一年で約1センチ成長するということがわかりました」
ということは…冒頭の80センチの個体は70歳以上にはなる。
オオサンショウウオは人間並みの寿命をもっている。
「このあたりの個体は今はめずらしくなった日本固有種なんですよ」
戦前にはオオサンショウウオも食用にされており、
中国産が輸入されていたのが逃げ出して交雑してしまったそうだ。
サンショウウオは山椒の味がするのか?
身体のガラが山椒に似ているからなのか?
「山椒の匂いが身体から出るといわれてますが、じっさいそうでもないですよ」とOさん
Oさんは2006年に新種認定された小型サンショウウオのひとつ「まほろばサンショウウオ」も保護されていた。
****
石道(いしみち)集落にある石道寺(しゃくどうじ)を訪れる。
井上靖の「星と祭」の中で印象的にとりあげられている観音像がある
※「長浜、米原を楽しむ」のページにリンクします
*****
渡岸寺の「観音の里資料館」では、館長のHさんにご案内いただくことができた。
一階の観音像を中心とした展示に加え
二階では今年没後百年になる富岡鉄斎(1837~1924)の特別展示をやっていた。
鉄斎についてはユニークな「妙義山」の絵をどこかで見かけただけで、その抽象画のような画面の印象が強かったが※WIKIにリンクします
小松ははじめて、鉄斎がどんな人物だったのかを認識させてもらった。
鉄斎最晩年に現長浜市高月町に住んでいた医師布施巻太郎(1881~1970)と密な交流があった。
四十歳以上年下の布施ははじめ鉄斎に相手にされていなかったが、青木木米(あおきもくべい)作の白い香炉を贈ったことで「これをわかる者ならば」と、信頼を得たのだそうだ。高月観音の里資料館の展覧会にはその香炉が展示されている。※こちら「高月観音の里資料館」のページに載せられています
没後百年なので他の多くの美術館も布施美術館の収蔵品に貸出依頼があったが、高月観音の里資料館は小規模ながら多くの逸品を展示されていると感じた。
※「布施美術館」についての滋賀県のページにリンクします
今回、予期せず館長Hさんと古参学芸員のSさんに熱のこもった解説をしていただけた。
鉄斎をもう少し知りたくなった。
*******
17時、尾上(おのうえ)温泉「紅鮎」に到着。
↑右にフナの子まぶし、酢味噌でいただきましょう
↑左下は「いぶきサーモン」、これ「伊吹山」のものかと思ったら、長野でした!※伊那谷にリンクします↑左上はカンパチ
↑近江牛を豆乳鍋で↑柚子胡椒がよくあいます
部屋にかけられていた絵は「紅鮎」の名前の由来を描いている↓
戦国時代、戦で川が赤く染まり鮎も赤くなったというのである
この絵は大津出身の画家・鈴木靖将の作品↑もともと衝立用に描かれたものを装丁しなおしたのだそうだ。
彼の最初の妻は日本画家の三橋節子。
4月2日に訪れる余呉湖で彼女にゆかりの場所でもある。
保護活動をしておられるOさんにご案内いただいてその生態を知ることができた。
※youtubeにUPしましたのでご覧ください
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己高山(こだかみやま)は仏教がやってくる以前から信仰の山だった。
長浜周辺には「白山神社」がざっと数えただけで十社以上みつかる。
山頂からは日本三大霊場の白山も見える↓絵図の一番上
己高山は仏教伝来以前からの聖山。
平安時代に比叡山から天台宗が広まってくると何十もの伽藍が山いっぱいに広がった。
だが、これらは信長戦国時代時代の戦火で焼かれた。
さらに明治の廃仏毀釈で衰亡した。
ネットや本の解説の多くはここまでしか書かれていない。
しかし、現地の方とお話するなかで昭和に至るまで己高山に多くの僧房が健在だったことを知った。
実際に人が住まなくなったきっかけは、昭和8年の冬に起きた原因不明の火事だそうだ。
どのぐらいの被害があったのか正確にはわからない。
だが、昭和17~18年にかけて鶏足寺の仏像が飯福寺に遷仏された。
人の住まなくなった山の中に立派な仏像が放置されるのはよくないということだったのだろう。
何十ものお像は周辺の村や家々にばらばらに護られていた。
昭和38年に公営の収蔵庫として己高閣がつくられた。
※長浜、米原を楽しむのサイトにリンクします
今回、こちらを見学することができた。
※写真撮影禁止
オオサンショウウオの保護活動をしておられるOさんは己高閣・世代閣を案内をしておれる。
ご自宅はすぐ近く。
サンショウウオが住む清流が流れている。
今回、己高閣・世代閣のご案内をしていただいたのだが、「ちょうど今オオサンショウウオを保護しているのです」ということで、見せていただくことができたのだった。
お住まいのすぐ隣の茅葺屋根の家もOさん宅。
家の前のケージにいたのは、大きなフクロウ!羽を怪我して動けなくなっていたのを保護している。
メスで、夜になると周辺のオスたちが求愛にくるそうな。
玄関を開けたところにいたのも↑元気なホンモノだった。
清流がながれる広い裏庭?へ
この一角に冒頭のオオサンショウウオが保護されていた。
流域に住むサンショウウオには一体一体に識別チップがとりつけられており、現在120個体が確認されている。
大雨で下流に流された個体があると連絡がきて保護しにゆく。
その時に身長・体重・特徴を記録する。
そしてまた自然に戻す。
同じ個体がなんども保護されてきて、その度に大きくなっているのがわかる。
こういう調査は長い年月にわたる辛抱強い記録が必要で、
遠くに住む研究者より地元に住む好事家のほうが活躍する分野だ。
「続けていくうちに一年で約1センチ成長するということがわかりました」
ということは…冒頭の80センチの個体は70歳以上にはなる。
オオサンショウウオは人間並みの寿命をもっている。
「このあたりの個体は今はめずらしくなった日本固有種なんですよ」
戦前にはオオサンショウウオも食用にされており、
中国産が輸入されていたのが逃げ出して交雑してしまったそうだ。
サンショウウオは山椒の味がするのか?
身体のガラが山椒に似ているからなのか?
「山椒の匂いが身体から出るといわれてますが、じっさいそうでもないですよ」とOさん
Oさんは2006年に新種認定された小型サンショウウオのひとつ「まほろばサンショウウオ」も保護されていた。
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石道(いしみち)集落にある石道寺(しゃくどうじ)を訪れる。
井上靖の「星と祭」の中で印象的にとりあげられている観音像がある
※「長浜、米原を楽しむ」のページにリンクします
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渡岸寺の「観音の里資料館」では、館長のHさんにご案内いただくことができた。
一階の観音像を中心とした展示に加え
二階では今年没後百年になる富岡鉄斎(1837~1924)の特別展示をやっていた。
鉄斎についてはユニークな「妙義山」の絵をどこかで見かけただけで、その抽象画のような画面の印象が強かったが※WIKIにリンクします
小松ははじめて、鉄斎がどんな人物だったのかを認識させてもらった。
鉄斎最晩年に現長浜市高月町に住んでいた医師布施巻太郎(1881~1970)と密な交流があった。
四十歳以上年下の布施ははじめ鉄斎に相手にされていなかったが、青木木米(あおきもくべい)作の白い香炉を贈ったことで「これをわかる者ならば」と、信頼を得たのだそうだ。高月観音の里資料館の展覧会にはその香炉が展示されている。※こちら「高月観音の里資料館」のページに載せられています
没後百年なので他の多くの美術館も布施美術館の収蔵品に貸出依頼があったが、高月観音の里資料館は小規模ながら多くの逸品を展示されていると感じた。
※「布施美術館」についての滋賀県のページにリンクします
今回、予期せず館長Hさんと古参学芸員のSさんに熱のこもった解説をしていただけた。
鉄斎をもう少し知りたくなった。
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17時、尾上(おのうえ)温泉「紅鮎」に到着。
↑右にフナの子まぶし、酢味噌でいただきましょう
↑左下は「いぶきサーモン」、これ「伊吹山」のものかと思ったら、長野でした!※伊那谷にリンクします↑左上はカンパチ
↑近江牛を豆乳鍋で↑柚子胡椒がよくあいます
部屋にかけられていた絵は「紅鮎」の名前の由来を描いている↓
戦国時代、戦で川が赤く染まり鮎も赤くなったというのである
この絵は大津出身の画家・鈴木靖将の作品↑もともと衝立用に描かれたものを装丁しなおしたのだそうだ。
彼の最初の妻は日本画家の三橋節子。
4月2日に訪れる余呉湖で彼女にゆかりの場所でもある。