鷲?鷹? やっと顔が撮れた。
「紅鮎」の部屋から見える木に巣がかかっている。
各部屋にある望遠鏡にiPhoneを押し当ててやっと撮った。
朝食のアサリ汁は琵琶湖らしい?
↑今日午後に訪れる葛籠尾崎(つづらおざき)上の道路が見える
**
4月1日08:45に出発。
きのうの黄砂の影響が消え、すっきりした青空。
最初に冷水寺を訪れた↑手前右手のお堂がそれ↑左奥の林の中に春日神社がある↑
冷水時のお堂に安置されている江戸時代の座像↓は明治の神仏分離令まで春日神社にあった。
明治の神仏分離令により、仏像は神社に置けないということで境内の外に小さなお堂がつくられたのである。
↑江戸時代の鞘仏の中には今も…
※2020年9月のブログに詳しく書いたのをお読みください
***
↑教会ではなく、ヤンマーの創業者山岡孫吉が生まれ故郷の東阿閉村に1952年に寄付した公民館↑
滋賀県伊香郡東阿閉⇒「ひがしあつじ」と読む。
ヤンマーの創業山岡孫吉は40代半ばにライプツィヒの見本市でディーゼルエンジンに出会い、その小型化に成功したことが大きな転機になった。日本の小さな田んぼでも使える耕運機のはじまりになる。
ヤンマーは現在も長浜に多くの工場を置き、創業者の生まれ故郷に貢献し続けている。
村の一角に最近建てられた創業者夫妻の胸像があった。
現在の四代目社長は創業者の孫。
築70年を超えた公民館は耐震基準に問題がでてきて、
補修にかかる費用をどこがどう負担するか・あるいは解体するか、話し合われている最中だそうだ。
****
「ここまで水に浸かったんですよ」↓
ガイドのOさんが車から降りて明治28年の洪水の記憶を示してくれた↑
江戸時代の西野水道が完成した後にもこんな水害が起きていたのか。
昭和になってあらたな水抜き穴が二度も建設される必要があったのだ。
※西野水道についてリンクします
*****
赤後寺に到着。
日吉神社、でもある。
鐘をつかせていただいいた。
こちらには平安時代の千手観音像が安置されている。
厨子が開くと予想よりずっと大きなお像が姿をあらわした。厨子は少し小さすぎるように見える。後の時代(明治?)に、様々な経緯でここに収められてはいるが、厨子はもともとこのお像のためのものではないのではないか。
お像の手はすべて欠損しているが平安時代の姿をよくとどめているように見える。
重要なのは集落の人々が代々大切に護り伝えてきたということ。
お話していただいて、お気持ちがよくつたわってきた。
↑お像が沈められたという赤川は今も村の中を流れている↑
江戸時代以前には立派な伽藍の寺院にあったようだが詳しくはわかっていない。
「天正十一年の柴田勝家と豊臣秀吉の戦火の際伽藍に火がつき、村人がこのお像を背負って逃れた。村を流れる赤川に石をくくりつけて沈め、柳の枝で覆って隠した。」という伝承がある。
↑「御枕石」はその時にお像の「枕」にしたものだそうな↑
境内を出てすぐに見える立派な白壁の家は↑布施巻太郎美術館↑
きのう高月観音の里資料館で見た富岡鉄斎の作品の多くはこちらのものだ。
※きのうブログにリンクします
******
余呉川沿いはタンポポの花盛り
※リンクします
トンネルを抜けて
*******
奥琵琶湖で最大の港だった塩津に入る
塩津には最盛期115隻もの丸子船があったと記録されている。
道の駅「あぢかまの里」でお昼ごはん用に名物の米粉のパンを購入
ここには貴重な「丸子船」も展示されている。
これから訪れる「丸子船の館」にもあるが、道の駅の船の方が古いのかもしれない。
↑こちらにはエンジンをとりつけた形跡がないから。実際どうなのでしょう?
今回も、小松が琵琶湖の歴史を知るには必見だと思っている「丸子船の館」へ
※2020年のブログで詳しく書きました
「丸子船の館」は塩津からもうひとつトンネルを抜けた大浦にある。
↑江戸中期に各港の丸子船の数↑塩津は大津より多い115隻が登録されている。
日本海から京都大阪への物流の要だったことがわかる。
塩津には舟の出入りに適した大代川が流れ込んでいる。
「港は大小の丸子船で埋め尽くされ、川沿いに蔵が立ち並んでいた。荷を扱う問屋は120軒、二十人以上泊まれる宿は二十数戸、飲食店は三十数戸。」と記録されているそうな。
地図ですぐとなりに見える大浦が17隻と小規模なのに成り立っていたのはなぜか?
奥琵琶湖は湖岸がすぐ山になっており、今のような湖岸道路はなかった。
今も訪れてみるとトンネルが集落をむすんでいる。
江戸時代当時は湖が荒れると隣の港に移動するのも難しかった。
だから、山ひとつ隔てただけの小さな港でも成り立っていたのだろう。
・・・小松はこれまで三回訪れて・かってにそう理解していたのだが、
今回新たな理解をした。
大浦は塩津より安く滞在できたと、「丸子船の館」の方が解説した。
塩津は公営でなんでも揃う場所だったが、その分物価も停泊代も高かった。
少々不便でも近くの大浦で荷揚げ・荷下ろしをして運送費を安くしたい商人のニーズは確実にあったのである。
↑江戸時代の大浦港のジオラマ
お昼ご飯は今は静かな大浦の港にて。
「あぢかまの里」で買ったパン。
今日は最高のピクニック日和。
「紅鮎」の部屋から見える木に巣がかかっている。
各部屋にある望遠鏡にiPhoneを押し当ててやっと撮った。
朝食のアサリ汁は琵琶湖らしい?
↑今日午後に訪れる葛籠尾崎(つづらおざき)上の道路が見える
**
4月1日08:45に出発。
きのうの黄砂の影響が消え、すっきりした青空。
最初に冷水寺を訪れた↑手前右手のお堂がそれ↑左奥の林の中に春日神社がある↑
冷水時のお堂に安置されている江戸時代の座像↓は明治の神仏分離令まで春日神社にあった。
明治の神仏分離令により、仏像は神社に置けないということで境内の外に小さなお堂がつくられたのである。
↑江戸時代の鞘仏の中には今も…
※2020年9月のブログに詳しく書いたのをお読みください
***
↑教会ではなく、ヤンマーの創業者山岡孫吉が生まれ故郷の東阿閉村に1952年に寄付した公民館↑
滋賀県伊香郡東阿閉⇒「ひがしあつじ」と読む。
ヤンマーの創業山岡孫吉は40代半ばにライプツィヒの見本市でディーゼルエンジンに出会い、その小型化に成功したことが大きな転機になった。日本の小さな田んぼでも使える耕運機のはじまりになる。
ヤンマーは現在も長浜に多くの工場を置き、創業者の生まれ故郷に貢献し続けている。
村の一角に最近建てられた創業者夫妻の胸像があった。
現在の四代目社長は創業者の孫。
築70年を超えた公民館は耐震基準に問題がでてきて、
補修にかかる費用をどこがどう負担するか・あるいは解体するか、話し合われている最中だそうだ。
****
「ここまで水に浸かったんですよ」↓
ガイドのOさんが車から降りて明治28年の洪水の記憶を示してくれた↑
江戸時代の西野水道が完成した後にもこんな水害が起きていたのか。
昭和になってあらたな水抜き穴が二度も建設される必要があったのだ。
※西野水道についてリンクします
*****
赤後寺に到着。
日吉神社、でもある。
鐘をつかせていただいいた。
こちらには平安時代の千手観音像が安置されている。
厨子が開くと予想よりずっと大きなお像が姿をあらわした。厨子は少し小さすぎるように見える。後の時代(明治?)に、様々な経緯でここに収められてはいるが、厨子はもともとこのお像のためのものではないのではないか。
お像の手はすべて欠損しているが平安時代の姿をよくとどめているように見える。
重要なのは集落の人々が代々大切に護り伝えてきたということ。
お話していただいて、お気持ちがよくつたわってきた。
↑お像が沈められたという赤川は今も村の中を流れている↑
江戸時代以前には立派な伽藍の寺院にあったようだが詳しくはわかっていない。
「天正十一年の柴田勝家と豊臣秀吉の戦火の際伽藍に火がつき、村人がこのお像を背負って逃れた。村を流れる赤川に石をくくりつけて沈め、柳の枝で覆って隠した。」という伝承がある。
↑「御枕石」はその時にお像の「枕」にしたものだそうな↑
境内を出てすぐに見える立派な白壁の家は↑布施巻太郎美術館↑
きのう高月観音の里資料館で見た富岡鉄斎の作品の多くはこちらのものだ。
※きのうブログにリンクします
******
余呉川沿いはタンポポの花盛り
※リンクします
トンネルを抜けて
*******
奥琵琶湖で最大の港だった塩津に入る
塩津には最盛期115隻もの丸子船があったと記録されている。
道の駅「あぢかまの里」でお昼ごはん用に名物の米粉のパンを購入
ここには貴重な「丸子船」も展示されている。
これから訪れる「丸子船の館」にもあるが、道の駅の船の方が古いのかもしれない。
↑こちらにはエンジンをとりつけた形跡がないから。実際どうなのでしょう?
今回も、小松が琵琶湖の歴史を知るには必見だと思っている「丸子船の館」へ
※2020年のブログで詳しく書きました
「丸子船の館」は塩津からもうひとつトンネルを抜けた大浦にある。
↑江戸中期に各港の丸子船の数↑塩津は大津より多い115隻が登録されている。
日本海から京都大阪への物流の要だったことがわかる。
塩津には舟の出入りに適した大代川が流れ込んでいる。
「港は大小の丸子船で埋め尽くされ、川沿いに蔵が立ち並んでいた。荷を扱う問屋は120軒、二十人以上泊まれる宿は二十数戸、飲食店は三十数戸。」と記録されているそうな。
地図ですぐとなりに見える大浦が17隻と小規模なのに成り立っていたのはなぜか?
奥琵琶湖は湖岸がすぐ山になっており、今のような湖岸道路はなかった。
今も訪れてみるとトンネルが集落をむすんでいる。
江戸時代当時は湖が荒れると隣の港に移動するのも難しかった。
だから、山ひとつ隔てただけの小さな港でも成り立っていたのだろう。
・・・小松はこれまで三回訪れて・かってにそう理解していたのだが、
今回新たな理解をした。
大浦は塩津より安く滞在できたと、「丸子船の館」の方が解説した。
塩津は公営でなんでも揃う場所だったが、その分物価も停泊代も高かった。
少々不便でも近くの大浦で荷揚げ・荷下ろしをして運送費を安くしたい商人のニーズは確実にあったのである。
↑江戸時代の大浦港のジオラマ
お昼ご飯は今は静かな大浦の港にて。
「あぢかまの里」で買ったパン。
今日は最高のピクニック日和。