バルセロナ終日の自由日。希望者六名でミニバスを借り、通常の観光ではなかなか訪れないガウディ作品を見に行く事にした。
市内中心部のホテルから三十分も走らずに、ちょっとした田舎風情のあるサンタ・コロマ・デ・セルヴェジョ村に到着。小さな車なのでバス駐車場ではなく、村の広場近くに降りられる。
月曜の午前中、ひっそりと静かだが人々の生活が感じられる村。どこにでもありそうだが、建物は百年前にグエル氏の注文によりガウディの弟子たちが手掛けたものがたくさん残されている。
上の写真左の建物は1892年にジョアン・ルビオの設計した「オルダル邸」。監督官か少し地位のある人の家だったようだ。別の角度から見ると⇒ 特に名前が付されていなくても、なかなか面白く・美しくつくられている 惜しいのはところどころでまったく別のテイストの家が割り込んでいて、もとはあっただろう統一感が崩されてしまっている事。
これらの住宅に住む労働者が働いていた工場は、かつてこんな様子だった。模型がインフォメーション記念館⇒の中に再現されていた⇒※ガウディの礼拝堂への入場券をここで購入する。
工場ではキューバから輸入した綿花をつかって⇒ コーデュロイなどをつくる繊維工場だった⇒ グエル家は父の代からキューバで農場経営をしていたのである。
最初、工場はバルセロナ市内にあったが、息子のエウセビ・グエル氏は環境が整った工場を郊外に建設する事にした。そして、自分の工場で働く労働者たち百五十世帯を住まわせる「コロニア」(=いわば入植地・居住地)としてこの村をいっきに作らせたのである。
しかし、それは百年も前の事。1936-39年のスペイン市民戦争の時には工場ごと一時接収され、戦後1945年にはグエル家の手も離れて売りに出されている。工場自体も1973年には閉鎖されてしまった。この状態では「統一感のある村」を維持することは無理な注文だったと想像できる。
それでも、村の中心広場に向かうと⇒1890年に建てられたグエル氏への表敬胸像が今も大切にされていた。↓
エウセビ・グエルという人はガウディという才能にチャンスを与えた事によって現代でも名前を残しているが、それだけの金持ちではない。
こういう労働者のための村を用意する度量の広い経営者だったのがわかる。労働者の子供たちのためにも十分な教育を施そうと、英語教師はわざわざ英国から招いてたのだそうだ。この街路樹の先にその学校も残されている⇒ 現代の労働力の搾取ばっかり考えているブラックなんとかとは、だいぶんちがう。
百五十戸の人々が住む村になれば、当然教会が必要になる。それまでグエル家が私的に使っていた小さな礼拝堂は回数を分けてミサを行うほど混雑するようになり、いよいよ、1908年に教会の建設がはじまった。
これらストーリーを知ってからガウディ作の未完の教会を訪れる事にしよう。
ゆるい坂をのぼってゆくと、すぐに目の前に「ひと目でガウディ」という礼拝堂下の階がみえてきた↓
扉を開けると、ひとによっては「ガウディ最高傑作」と称賛する空間がひろがった。
・・・次の日記に続く