祭りの翌日の朝
ヴァレンシアの旧市街真ん中のホテル、最上階レストランより
10時にホテルを出て、地中海沿いを北上、二時間ほどでペニシュコラというちいさな半島の城塞に到着。
ここは「ヴァレンシアのジブラルタル」などと呼ばれることもある。今は穏やかなリゾートタウン。
復活祭の晴れた日曜日、暖かい陽射しにさそわれて地元民がたくさんあそびにきている。
だれもが足を向けるのは、丘の上の村と城塞
歴史にぜんぜん興味がなくても、楽しめる風景がある。
**しかし、その場所にまつわるお話=歴史は、知っていればもっと面白くなる。
今回、小松が知りたいと思っているのは、1423年にこの城で没したベネディクト十三世というローマ法皇のこと。
※彼について簡単に⇒こちらに書きました。
城砦への道の途中で彼のブロンズ像が迎えてくれる。
歴史上の人物について知りたいのは、その人の実際の風貌。
背が高かったのか痩せていたのか太っていたのか、どんな印象だったのか、どんな声で話したのか。
あるいはどんな食事をしていたのか・・・そんな肉体的な事。
下の銅像はベネディクト13世だというのだけれど↓どう見えますか?
ベネディクト13世はローマ法王といっても南フランスのアヴィニヨンで1394年に戴冠。
日本で言えば南北朝時代のように法王が何人も擁立された分裂時代のことである。
フランス国王がそろそろ混乱を終わらせようとしたが、退位しようとしない。
ついに軍隊をさしむけて1398年から五年間もヴィニヨンを包囲して退去させた。
しかし、自らの出身地のアラゴンへ逃れ「法皇である」と言い続けた。
1415年のコンスタンツ公会議へも出席。
ほかに二人いた法王が自主的に退位したり捕らえられたりしたのだが、彼はここでも「自分こそが法王だ」といい続けた。
ついにアラゴンの田舎の孤城ペニシュコラへ半ば幽閉され、八年を暮らし、1423年に没した。
彼も見ていただろう要塞屋上から見晴らす地中海はとてもうつくしい。
ベネディクト十三世は、同時代の人の書き残した印象では、「痩せた銅像のようで、謹厳な印象」を与えていたようである。
★主に野菜とパンを食べ、時々肉やワインも口にしたが食事に長い時間を費やすことはなく、決して過食しなかった。
ここが彼の時代のキッチンだった場所↓
★修道院からのレモンを干したもの(たぶん砂糖漬けのお菓子?)を口にしたが、1418年にはそこに毒を盛られてあやうく暗殺されるところだった。
当時すでに九十歳近かったこの人物をわざわざ殺そうとする人が出るほど、周囲には影響力を持ち続けたということかもしれない。
★南仏モンペリエで学んだころから蔵書家で、この城にもたくさんの書庫があった。
今はどこもがらんとしているが明るい光の入るこの部屋がいちばんの書庫だった↓
本の分野は宗教にとどまらず、哲学、歴史、数学、薬学、解剖学、自然科学、建築学、詩、美術、など多岐にわたる。
幅広い知識をもった初期のルネサンス的思想をも持っていたということだろう。
晩年にはしかし、経済的な困窮の為にその本を一部売らなくてはならなくなったと解説されていたのだが。
★死の前年、「自分が死んだら次の法皇を選ぶ選挙(コンクラーベ)を行うように」と遺言を残し、実際に最期まで彼に従っていた三人の枢機卿が集まって選挙をおこなったのがこの部屋。急な階段を下りてたどりつく↓
実際には四人の枢機卿に言い残していたのだが、あとのひとりはトルトーサの街に居て参加しなかった。
★意外にもスコットランドの、セント・アンドリュース大学から法皇へ送られた記念のプレートがある。
なぜ?↓
スコットランドは最後までベネディクト十三世法皇を支持した国で、それによってか、1413年に法皇勅書によって大学の設立を認めてられている。 セント・アンドリュー大学は今も、英語圏では世界で三番目に古い大学という名誉を得ているのである。
↑上の写真の二つの紋章をよく見ると
セント・アンドリュース大学の紋章には、ベネディクト十三世の出身家「デ・ラ・ルナ(月の)」の紋章が上部に用いられている。
ベネディクト十三世は、この紋章から「月の法皇」を呼ばれてる。
それは太陽のように輝きはしなかったとしても、対立法皇として最後まで意地をとおしたという意味がこめられているのだろう。
歴代の法皇にはいろいろな性格の人物がいるが、このベネディクト十三世は存外「清廉で敬虔な善人」だったように感じられた。もちろんそういう「清廉で敬虔な善人」の方が、悪人を自覚する人物より扱いにくいのだけれども。