旅倶楽部「こま通信」日記

これまで3500日以上世界を旅してきた小松が、より実り多い旅の実現と豊かな日常の為に主催する旅行クラブです。

ティー・ファクトリーとペラデニア植物園

2015-01-21 08:30:42 | スリランカ
スリランカはもともとセイロン。今でもセイロン・ティーが栽培されている。特に栽培の盛んなのが海抜500メートルほどのキャンディKANDYの町周辺から海抜1800メートルのヌワラエリアにかけての一帯。

今日はキャンディの町から少し山へ行ったところにあるティー・ミュージアムを訪れる。街を出るとすぐに舗装もしっかりしていない山道になる道にくらべて立派な看板ここからひとつコーナーをまわると、昔のティー・ファクトリーがすっくと立っていた。

ここは1925年から1986年まで稼働していた工場である。

セイロン茶の歴史は思うより古くはない。大英帝国はもともとコーヒーを栽培していたのだが、思うようにいかなくて、北インドのアッサムで発見した種類のお茶を持ち込んで成功したのだ。

ミュージアムに入ったところに胸像のあったジェームス・テーラーという人物がその主導者。セイロン茶の父といえる存在だ
彼は1867年にはじめて茶を植え、四年後にはじめての商品23ポンドだけをロンドンの市場へ送り出した。幸いそれは好評で、翌年には10エーカーの茶畑を完成させていた。

係員の女性が一緒にまわってくれる。
お茶の葉を揉む工程の機械がこれむかし、ジェームス・テーラーがはじめたころは手で、こんなフライパンみたいなので行っていた作業である。


テーラーが成功すると、そこに目を付けた若者がやってきた。
若干四十歳のトーマス・リプトンはジェームス・テーラーが五十七歳という若さで(赤痢で)亡くなる二年前にセイロンにやってきた。二人はきっと会っているだろう。

すでにイギリスにチェーンストアを持つ資本家だったリプトンは、当時上流階級の飲み物だった紅茶を庶民の手の届く金額で提供しようと考えた。直営の工場をつくり、「茶畑から直接ティーポットへ」というスローガンをぶちあげた。
輸送も自前

結果、当時1ポンド(およそ450グラム)が3シリングという値段で売られていた紅茶は、1.7ペンスで販売できるようになった(1シリングは12ペンス)。※当時労働者は一週間二ポンド程度で生活していた(20シリングが1ポンド)。大価格破壊である。

この工場が稼働していた時代には、この箱に各種茶葉が満杯だったのだろう
最後に最上階でティーをいただきます

**
街へもどる。
いろとりどりの布が干してあるのは洗濯屋さん大通りの突き当りには巨大な仏陀
キャンディの町のど真ん中にある刑務所の壁

そして、キャンディ王朝時代から王室の庭園だったというペラデニア植物園へ


●今上天皇が皇太子のころに美知子様と共に植えられた「イエロー・トランペット」

●ベネズエラのバラは直径二十センチぐらいある巨大な花が咲いていた

●セイロン・アイロン・ウッドというこの木は、1891年にロシア皇太子ニコライが植えたもの。そうか、この年の5月に来日し、大津で警官に斬りつけられる「大津事件」が起こる旅で、セイロンにも立ち寄っていたのか。ロシア革命で悲劇の皇帝となることなぞ知る由もなし
このプレートは2011年にロシア大使が設置したと書かれている歴史の長い植物園です。

広大な植物園、日陰はとても快適、ひとやすみ


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スパイスガーデンからキャンディへ

2015-01-20 23:45:44 | スリランカ
午前中シギリア・ロックを登って、お昼はマータレー近くの「スパイス・ガーデン」にて。このお皿の上に乗っている丸いもの、マンゴーのカレーなんです。おいしい(^_^.)スリランカの名産のひとつは香辛料。ここではいろいろな種類の実物が庭に植えてある。
●ウコン。漢字では「鬱金」、中国語で「薑黃」と表記するのは、つまりこの色からきているのがよく理解できる

英語ではターメリック。
近頃日本では「ウコンの力」とか話題になっているが、古代からアーユルヴェーダに用いられたし、よくよく料理に使われる材料のひとつだった。

●カカオ豆がこんな風に木になるなんて知らなかったココ椰子とカカオはもちろん違うもの。チョコレートの材料はこれですこれは甘くありません(笑)

●胡椒大航海時代の最初の主役がこれ。白コショウが皮をむいてつくられたもの、黒コショウは皮ごとなんだそうです。

●クローブは漢字で「丁子」と表すこれは、実が釘のカタチに似ているからだという。なるほど。フランスで釘はClouと言う。語源はフランス語だったんだ。

他にも、アロエやら生姜やらバニラやらを見せてくれて、さて商品説明会人によるでしょうけれど、なかなか使える品もあるようです。即効性は無駄毛取りクリームでした。
販売所では小分けをいろいろ売っているのでお土産によいです
レジの後ろにかざってあったアウカナの巨大なブッダ像、そのうち見てみたいです。

**
KANDYへ向かう途中、今回は寄らなかったがアルヴィハーラの石窟寺院は面白そう。
前だけ通った時に、入り口奥に岩山が見えた。

ここは紀元前一世紀から寺院のあったところで、スリランカ屈指の経文が収められていた。西欧支配の時代に何度も襲撃されて宝物を持ちさられたそうである。
なかでも1848年に、Saradilサラディールという義賊(ガイドさんはスリランカの「ネズミ小僧」と形容してまいた)がこの寺にかくまわれ、それを知った英国軍が破壊した時はひどかったのだそうだ。
現代でも椰子の葉に鉄筆で刻んだ経文や、岩に画かれた地獄絵が見られるそうな。次回是非。
街には新しくできたヒンズー寺院も

***
KANDYの市街に入ってくる1815年にイギリスに廃絶されるまでシンハラ王朝最後の都だった町。
イギリスが支配の拠点とした建物が街のど真ん中にある。今回の我々の泊まるクイーンズ・ホテルがそれ。もちろん古い室内
窓からは人造のKANDY湖が見える。19世紀初めに、最後のキャンディ王が12年かけて建造したとされる。

※場所はこれ以上ないほど良いけれど、車の往来がはげしくてちとうるさい。翌日は内側の部屋に変えてもらいました。

****
夕方になり、カンディアンダンスへ向かう。いろいろな外国語の説明書きが用意されている

四十五分ほどのショーの後、屋外では火渡りを見せてくれた。

これもまた神様に捧げる儀式だったのであります。

クイーンズホテルのクラシックなダイニング






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シギリア・ロックに登る

2015-01-20 23:08:52 | スリランカ
《手造の旅》スリランカ、四日目。
ついに、あのシギリア・ロックのふもとまでやってきた。

スリランカを代表する観光地で、いろいろ資料があるにもかかわらず、実際に来てみないとわからない事ばかり。
バスを降りてから岩山の登り口に行くまでに、こんなに距離があったんだ。
※⇒バスの駐車場近くにある日本が作った博物館について、こちらに書きました。

シギリアはその周辺も合わせてけっこう広い都市遺跡だった。岩を中心城塞として建設された城の、これは城壁に相当する壁の一部この部分だけ屋根がかけてあるのは、オリジナルの部分だから。
※堀に囲まれた部分は一辺が800~900メートルの長方形になっていると解説されていた(現地購入の資料本)

城塞の中には幾何学的な水庭がシンメトリーに配置されている。

それはアンコールワットやタージ・マハルを思い出させる。現在でも水が流れている部分もある

まっすぐ岩山に向かって続いていく参道を突き当たると、岩の下には小さな礼拝堂がたくさんあったのがわかるかつてはそれぞれがフレスコ画で飾られていた名残も見られる。
この二つの岩の間を通って城塞への登り階段がはじまる

こんな小さな子までがんばっているんだからがんばらなくちゃ!


シギリアロックは海抜360メートル、地上から200メートルの高さに切り立っている。
現代ではこんな階段が整備されてはいるが、岩場にへばりつくように取り付けられているヶ所もあるから決心してのぼっていかなくちゃなりません。おサルは平気そうだけれど

下の写真で、らせん階段が導く岩のくぼみに、有名な「シギリア・レディ」のフレスコ画がある。

赤い壁も古代のもので「ミラーウォール」と呼ばれるほど、磨き上げられている。
そこには、5世紀から14世紀初頭にかけて訪れた人々が残した詩や感想が書き込まれている。「らくがき」とガイドブックが説明しているのにはちょっとそぐわない類の訪問記帳か。我々観光客がいきかうところにはそれほどはっきりした文字は見えなかったが、研究者によると合計850の「らくがき」が解読されているのだそうだ。
ここシギリアが都としては崩壊した後にも僧院として使い続けられ、中世時代にあっても有名ないわば「観光地」であったことを示している。

千年前に訪れた人々にも、現代の我々にも、強烈な印象を与えるのは「シギリア・レディ」

千五百年も前に画かれたとは思えない色彩とすばらしい描写力。

このアプサラ(日本流に言うと「天女」)をモデルにした焼き物が出土していて、それはどうやらここを訪れた人が「お土産」に手に入れていたものと推察されている。
現地の説明本に載せられていたこの十センチほどのフィギュアは、たしかにあの「アプサラ」をモデルにつくられたように見える。


訪れた神殿の有名なものを持ち帰って見せたいと思う気持ちは洋の東西を問わない。
古代ギリシャやローマの神殿にも似たようなものが作成されていて、それぞれの博物館にたくさん展示されていたのを見た。
現代のお土産というのは、そういうものの延長線上にあるのだ。

*「シギリア・レディ」を見たら、再びミラー・ウォールまで降りて、今度は岩の上にある宮殿への入り口をめざす。
これがもともと宮殿の入り口であったとされるライオンの入り口。階段はライオンの口になっていたと想像されている。

●シギリアとはSIMHA-GIRI=LION MOUNTAINという言葉がもとになっている。

さらに上る階段は岩にへばりついている

登り口のライオン岩を見下ろす

岩の上にはいっぱいに5世紀の宮殿跡がひろがっている

この岩山の上に、下から風車をつかって水を汲み上げていたという説もあるのだそうだ。


★★シギリア・ロックの逸話★★~ガイドブックによく載せられているものと、現地で小松が収集した話を組み合わせてご紹介します。
紀元後五世紀、アヌラダプラを首都にしていた頃。
ダートセーナ王は、南インドからの侵略者たちを追い払い、たくさんの人造湖をつくって人心を掌握していた。
ある時、ひとつの池を造成するのに同意しない僧があったが、王はかまわずに工事をして僧を沈めてしまった。

因果応報、やがて王の身にこの行いの報いがやってくる。

ダートセーナ王には長男のカーシャパがいたがその母は平民の出。次男のモッガラーナの母は王族だったので、カーシャパは先手を打って父王を監禁し、王国の宝と王権を譲ることを迫った。父王は長男を自分の造成した人造湖に連れて行き「これが私の宝だ」と言った。
当時こういった大工事をする際に、宝物を納めて仏像を建設したり埋めたりすることが行われていたので、それを指すと思ったカーシャパはその場所を教えるように求めたが父王はそれには答えなったため、カーシャパは父を殺してしまった。

兄の所業をしった弟モッガラーナは南インドへ亡命。父殺しの大罪を犯した自分にいつか報いがやってくるのを恐れた兄カーシャパは、僧院のあった要塞シギリアに新しい街を建設して遷都する事を決めたのである。西暦477年の事と言われている。

シギリアは岩の上の宮殿を整備した

玉座は下の写真の下のほうに写っている石のテーブルのような場所。
天蓋をたてたと思しき穴が残っている。


十七年後、弟のモッガラーナが兵を率いてシギリアを襲う。
堅固な要塞に見えたこの場所も、人心を失っては守りきれない。
カーシァパは宝剣を身に突き立てて果てた。

****
カーシャパ王がここを首都とした十七年間が、このシギリアがいちばん繁栄した時代になった。「シギリア」という名前もこの時代に与えられた。
彼がやってくる前からここは僧院だったが、カーシャパの死後にもまた僧院にもどった。
アプサラのフレスコは岩山の中腹に400メートルの長さにわたり、上下の幅40メートルにもなっていたそうだ。何百という天女が描かれていたのである。
現在では我々観光客が見られる「フレスコ・ポケットAとB」の他にC,D,Eの三か所が残されているだけなのだそうだ。

*****

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ポロンナルワ~スリランカ第二の古都

2015-01-19 17:24:50 | スリランカ
《手造の旅》スリランカ、三日目。ダンブッラ石窟寺院の次にポロンナルワ都市遺跡。

遺跡見学の前に、堤防から滔々と清らかな流れが目に留まった。

今から一千年も前に、パラクラマ・バーフ王が建造した人造湖だと聞いて驚いた。
現代になって修復されたとはいえ、現在でもこの水が現代のポロンナルワの町を繁栄させているのだ。

それこそ、古代ローマにも匹敵するような土木工事が行われていたという事。


紀元前からの首都とされたアヌラダプラから、紀元後10世紀ごろに80㎞ほど南に位置するここに首都が移された。
スリランカのシンハラ王朝は、常に南インドのタミル人との戦いと共存の歴史をもっている。
ポロンナルワに都を定めたヴィジャヤバーフ一世が王子キッティという名前だった時代には、もっと南の山岳地帯ルフラまで追われていたのだった。

●三十二本の大理石の柱に支えられた木造二階建ての寺院跡。
この建物は首都になる以前の七世紀から存在したとされる

通常のムーンストーンに入る牛は、ヒンズー教徒が多かったこの時代に配慮して、足で踏む場所には描かれていない。
横にはちゃんとおりました

ポロンナルワを取り戻し、仏教徒の聖遺物である「ブッダの犬歯」を収める堂を建設し、ヴィジャヤバーフ王は敵である筈のタミル人とも時々にうまく付き合っていた。
衛兵(Velakkaraと呼ばれる)はタミル人だったのである。
●タミル人が理解できる文字で記された「保証書」がこれ。時には反乱さえ起こしたタミル人の衛兵たちだったが、ブッダの聖遺物を守る役割をまかされていたのである。


王が祈るための場所は少し変わったかたちにねじれた石の柱で支えられていた
隣りにあった筈の堂はATADAGE(アタダーゲ)と呼ばれるが、ATAは数字の8である。これが何を意味するのか諸説ある。ひとつは八つの聖遺物を収めていたからというもの。
もうひとつは、この建物は八日間で完成したから、というもの。
実際この建物に使われている建材は前の首都アヌラダプラでも使われていたものと推察されているのだそうだ。

●仏教が衰退しかかっていたこの時代に、現在のタイやミャンマーから僧を呼び寄せた記録もあり、こんなタイの様式をつかった仏塔もある

●ニッサンカマッラ王の時代にシギリアからもってられた5トンの石でつくられた「石の本」
⇒これについてはこちらももう少し書きました。

●唯一屋根も残っている建造物、内部には損傷はしているが仏像が設置されていて、その目にはかつて宝石がはめ込まれていたとされる


**ここまでが「クワドラングル」と呼ばれる四角い形をした少し高台になったエリア**

北にはたくさんの寺や宮殿の跡がのこっているのだが、とても全部見て回る時間はない。大事な所を選んでバスでまわる。
●ポロンナルワ最大の仏塔であるランコット・ヴィハーラ

高さ55メートルということは、パリの凱旋門より高いのだ。
もともとは先端が金色に塗られていたとされる。

●17メートルを超える仏像が見下ろすランカティカラ
僧院であり、大学であったエリアの中心とされている。

かつてはフレスコ画で美しく飾られていたなごりがところどころに見つかる。

●キリ・ヴィハーラ「キリ」とはミルクを意味する。白いゆえのネーミング。12世紀の皇后のひとりが建設させたとされる。

●ガル・ヴィハーラ
最初に紹介した人造湖を建設したパラクラマ・バーフ王が施主となった建物の跡。
三体の巨大なブッダは、左から瞑想、悟り、涅槃の姿をあらわしているとされる。
巨大だが、それぞれが繊細な感情表現をもってつくられているのが感じられる。




***
ちょっと遅めの昼食は、つい先日当選した新しい大統領シリセーナさんの弟が経営しているのだそうだこの地方を地盤とする一族の出身なのだそうだ。

****
ガイドのマーティンさんのお父さんは砲兵隊の中佐で、この基地にも滞在していたのだそうだ子供のころに父親の職場を訪問した話をしてくれた。

*****
ミネリアの自然保護地区でサファリ体験!
ジープが待つ場所で突然蒸気機関車に遭遇
⇒この話、もう少しこちらに書きました。

「象さ~ん、出てお出でぇ」

いたいた、八頭のファミリー。静かに静かに。

といっても、どんどんジープが集まってくるのですが。

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ダンブッラの石窟寺院

2015-01-19 10:54:50 | スリランカ
カンダラマ、ヘリタンスホテルの朝

敷地内を走っていると野生の孔雀が

十五分ほどでダンブッラの町にある石窟寺院入口へ到着本来はこで車から降りて、岩山の中腹少し上にある石窟寺院まで階段を登ってゆくのだが、今日は小さ目の車なのでもうすこし上の駐車場までいくことができた。しかし、そこからでも十分ほどは坂を上らなくてはならないそして、入口に到着周囲を睥睨する岩山である。

**
ダンブッラの五つの石窟はこんな風。入口手前から古い順に並んでいる。


入ってすぐのところに石窟寺院の縁起を記した大きな石板が置かれている。
●紀元前一世紀、南インドの王朝との戦いに敗れ、都アヌラダプラを追われたワタガンバ王(日本語のガイドブックではワッタガーミニと表記されている。別の日本語資料ではワラガム・バーフとなっている。だが、実際に小松の耳にきこえてきたのは「ワタガンバ」だった。)が、この岩山に逃れ、十四年間の雌伏の末に勝利し、都をとりもどした。
都をとりもどした王は、この石窟にすでにあった第一窟の涅槃像に金箔をほどこし、第二窟をつくって仏陀の像を寄進した。
ここはそれ以降石窟寺院として発展していった。この石板を寄進して縁起と、自らの仏教にたいする貢献を記したのは十二世紀の王ニッサンカマッラである。

★第一窟と第二窟はニッサンカマッラ王の時代までにつくられた。
第一窟を入ると、部屋いっぱいに十四メートルの涅槃像が岩から削りだされている。

足の裏が少しずらされていることで、死去した後の姿をあらわしているそうな。


周囲にはサルがたくさん

★第二窟は横長に五十二メートルと最も大きいく壁や天井いっぱいにフレスコ画が描かれている。


現在の入口は後の時代に開けられたもので、もともとは下の写真の仏像の右手が入口だった。仏像の右後ろに肘だけ見えているのが建立者のニッサンカマッラ王。だが、近くまで行く事はできない。


天井には仏陀の物語が描かれている。これはコブラが仏陀を襲っているのではなく瞑想する仏陀を暴風雨から守ったという逸話であります南アジア圏ネパールで、同じようにコブラが王を守るように登場する像を見かける。これは、仏陀はヒンズー教の神であるヴィシュヌ神の生まれ変わりの一つであり、ヴィシュヌ神は王の守護をすると信じられているから。この洞窟にも黒い体をしたヴィシュヌが祭られている。


悟りを開いた巨大な仏陀のまわりに、たくさんの悪鬼が驚いて大騒ぎする姿がユーモラスにえがかれている一番下にはブッダにむかって膝をつくゾウ。そこから転がり落ちるゾウ使いもまた悪鬼のような顔をしている。


第二窟にはどんな渇水の時にも止まることなく流れ続けてきたという聖水が天井から滴り落ちている。

「歩き方」によると、ダンブッラという名前は「水の湧き出る岩」という意味なのだそうだ。

★第三窟
キャンディ王朝時代、キルティ・スリ・ラージャハーにより建設され、二窟の例にならって、ここでも王本人が冠をかぶった姿で祈りをささげた像がある

★第四窟
同じくキャンディ王朝時代の建造。
二十年ほど前に、欧米人が奥に見える坐像の膝に乗って記念写真を撮り、それが新聞に掲載されて大問題となった。

それで塗りなおしたので、これだけが鮮やかな黄色をしている。
また、その前にある仏塔はそこに隠されていたという宝石を狙って盗掘され、今でも向こう側に穴が開いているんだそうな。

★第五窟
王朝の最末期につくられたせいか造りが荒く感じられる。また、修復も熱心にされていないようで、天井ははがれた箇所もあった


さて、下りは急な階段を下りて正門前に待つバスまでいかなくては。
しばらくいくと青空に巨大な仏陀の後ろ姿。

下まで降りて振り返ると、巨大な口を開けた獅子のような入口。
これはもちろん近年になってつくられたもので、博物館になっているのだそうな。


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