旅倶楽部「こま通信」日記

これまで3500日以上世界を旅してきた小松が、より実り多い旅の実現と豊かな日常の為に主催する旅行クラブです。

トリニダー~キューバの古都

2015-12-11 21:01:32 | キューバ

キューバの南岸からカリブ海が見えた。この向こうにジャマイカやケイマン諸島がある。

シエンフエゴスと同じくキューバ南岸に面してはいるが、海岸沿いには行けずちょっとした山越えをする。あらわれた海岸線を走りトリニダーへ向かう時、ちいさな砂浜が河口の海辺にひらけているのをいくつもみかけた

ジャングルから何本も川がカリブ海に流れ込んでいるのだ↑
 


●トリニダーはキューバを代表する観光都市のひとつ
1514年に建市されたというから、五百年の歴史があり、街もそれをアピールしている

「キューバの京都」と言われちゃうと、違和感もありますが。


旧市街の家の軒先に届く高さの大型バスが、どんどん駐車場に入る

歩き出す観光客に、客引き人力タクシーが声をかける


旧市街の道は、でこぼこに石が敷き詰められていて歩きにくい。昔の雰囲気を再現するためなのだろうが、ちといきすぎでは?ヨーロッパの石畳どころじゃありません。それとも歩道を歩かせるための作戦なのかしらん


トリニダーのシンボルになっている塔が見えてきた


午後二時半、少々遅くなったが街いちばんの老舗レストラン「エル・ヒグエイ」に入る

昼時をずっとはずれているのでお客は我々だけ。ここでも感じの生バンドがやってくる


すばらしいお天気。空が青く、街全体の色がとても鮮やか


昼食を終えて、革命博物館へ向かう途中、小学生の子供たちとすれちがった

どこで見かけても制服を着てきちんとしている。 キューバに資本的な豊かさはなくとも、医療と教育が完全無料であることは、そこに暮らす国民にとってどれだけ安心できる要素になっていることか。さらに、市民が武器を持つことを厳しく制限して治安が良いことも最大に評価すべき。 アメリカからどっと人や物が入ってきて貧富の差が広がるとき、医療・教育・治安の三つをどのようにまもっていけるのかがキューバという国の将来を決めるに違いない。


●革命博物館は、実はかつての修道院の建物。さっき見えていた塔は鐘楼だったのか↓



ここの革命博物館はちょっと変わっている。1959年1月1日に一応革命が成功した後にも続いていた反革命勢力(+アメリカ)との戦いについてを主に展示しているのだ。


次の地図で赤い点線で囲われたエリアが、1959年から65年にわたって、反革命勢力が支配し抵抗を続けたエリア

トリニダーのすぐ北に位置する山間部ジャングルにあたる。つい前年までの体制側が、こんどはゲリラとなって山間部に潜んだということである。


アメリカ側は山間部に飛行機で武器や物資を送り込み、偵察機も飛ばした。キューバ側が撃墜したU2偵察機の残骸の一部

反革命勢力によって殺された兵士の肖像写真

ここで全員がかぶっているのは、フランス革命の際に民衆のトレードマークとなった赤い「フリギア帽子」。ローマ時代に解放奴隷がかぶったことが起源とされている。キューバでは国章にもあしらわれている※この国章の意味するところについては別に書きます。


革命軍は一般民衆への教育を最重要とおもい、文字を教えられる人なら子供でも教師として派遣した。この写真では左側の少年が教師である⇒ ハバナの革命広場に顔がえがかれている二人、ゲバラ(右)とカミーロ・シエンフエゴス(左)⇒



教会の鐘楼だった塔に上ると

瓦屋根の古い街並みが見晴らせる↴



塔を下りて中心となるマヨール広場へ歩いていく途中振り返ると、CUP(兌換ペソ)の25セントコインに刻まれた風景が見えた


兌換ペソのコインにはキューバ各地の観光風景が刻まれている。


マヨール広場⇒この町の主教会となるサンティッシマ教会

この教会を背にして左側の平屋建物は「建築博物館」。ガイドさんがそこの係員に聞いた古い時代の瓦の作り方の話をしてくれた。


16世紀、湾曲した瓦はどうやってその形をつくったいたのだとおもいます? 答えはなんと、奴隷女性の太もも!に、粘土を張り付けて、乾くまでおいていたのだそうな。


「その瓦、みられませんか?」と小松が何度も言うと・・・ガイドのアントニオさんがついに博物館のスタッフに訊いてくれた。すると、入場もしない我々のために、親切な係員のおひとりが、なんとショーケースから取り出して!実物をもってきてくださった↓

思っていたよりもずっと大きい。そういわれて見ると、確かに太ももから膝のぶぶんの形状をしている。サイズの同じような女性たちをずらりと座らせて、この瓦をつくっていた光景を思い浮かべると不思議な気がする。
「今でもこの瓦は残っているのよ」と、博物館スタッフが教えてくれた。
確かに瓦が修復される時、ダメなものだけ新しくするから、古いものが何百年も残ることはある。
奈良は法隆寺の瓦にはいまでも千年まえのものが生き延びているときいたことがある。ううむ、おもしろい。  


時刻はすでに16:45。博物館は17時閉館だからちょっと無理ですね、また、次回(いつだ?)

いつもはこんな親切にめぐりあえるか分からないだろう。


**名物酒場「カンチャンチャラ」へ行く

店の名前はサトウキビからつくられたお酒の名前そのもの。特徴ある丸い器をずらりとならべてつくっている

甘味はあるがけっこう強いお酒

ここでも生バンドが入り、好きなだけ滞在していてよい⇒


そろそろ日が傾いてきた。バスにもどって、今晩の海辺のホテルをめざすとしよう

それにしても、でこぼこすぎる石畳の道であります。


****


一か所、かつてのサトウキビ工場が見晴らせた展望台に寄る

ここはそのまま「インヘニオ=サトウキビ工場」平原と呼ばれるようになった。


なんとか陽のあるうちにホテルに到着

カリブ海は明日の朝に散歩することにしよう。

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シエンフエゴスと田舎道

2015-12-11 11:58:20 | キューバ

ハバナから東へ250キロ、三時間半ほどのバス移動となる。朝のハバナ郊外には交通機関を待つひとびとがたくさん⇒公共交通機関の絶対量が不足しているので、ヒッチハイクが公式にみとめられている。公式に、というのは車を止める専門の公務員が配置されているから。びっくり。

ハイウェイで休憩して、シエンフエゴスへの県道クラスの道へはいる。馬車が増えてくる⇒キューバではこういった乗り物がまだまだ交通機関の主力なのだ↴

乗車賃は一回5CUP(人民ペソ)=約¥25円程度。

この発電所の煙突は192mでキューバ一の高さがある。火力発電で、自国産の石油を燃やしている。硫黄を含んだ質が良くない原油なので、ガソリンにするには向かないのだそうだ。当然、煤煙も多い。環境汚染は、これから数年後にキューバの課題になってゆくことだろう。 郊外に無農薬で栽培されている農園が目につく⇒「なかなか先進的だな」と思うが、実は1991年のソ連崩壊後、農薬や化学肥料が手に入らなくなって甚大な被害が出た後に取り組んできた結果なのだ。

こんな看板があるのがキューバならでは⇒

●シエンフエーゴスの街にはいってくる。もっとも後になってから入植されてフランス人によって整った町が建設されたなるほど、ハバナとはちょっとちがう。

中心の広場に到着

この町の建市が宣言されたのは1819年4月22日、JAGUAの木の下で、と記録されている。市の紋章にその木がえがかれているボルドーとニューオリンズからフランス人を計画的に入植させた理由は、隣国ハイチでの黒人政権の成立。白人を増やすのが建市の目的だった。広場の中心にはめられたメダル シエンフエゴスがハバナと同じような湾になっているのがわかる⇒

ほんの三十分ほどだが自由時間。港が近いというから歩いて行ってみる。まっすぐな道に均等な高さの建物がならんでいるさすが世界遺産に指定されるだけものだ。 説明版に地図が載せられていた⇒赤い部分が世界遺産指定の旧市街だが、その周辺も同じように計画的に町がつくられているのがわかる⇒ 露店の店で木製のハミングバード(ハチドリ)が売られていた。これはちょっとしたお土産になるかも⇒

強い陽射しですべての色が輝いて見える 港に突き出した桟橋⇒

ぐるりと丸い湾になっているのが、肉眼で確認できた。カリブ海への出口は一か所だけ。流れ込んでいる川はあるが、(ハバナの港も同じだが)水をきれいに保つのに苦労するのではないかしらん。

また、このすぐ近くには1980年代に原子力発電所の建設が始まったが、中止になり、そのままになっているのだとか。

**

ふたたび中心のホセ・マルティ広場にもどってくる。フィレンツェの大聖堂に似たドームのある建物は市庁舎 斜め向かいにあるトマス・テリー劇場⇒ ヨーロッパのクラシックなオペラ劇場のつくり⇒ ここにはアンナ・パブロヴァや、伝説のオペラ歌手エンリコ・カルーソも公園をおこなった場所。 年末に向けて、「アブダカダブラ」なんてショーの告知があったが、入場料は外国人とキューバ人とで二十倍以上違う⇒←写真一番下のところに二つの単位で入場料が書かれている。

***少々遅くなるが、今日の昼食はトリニダーにて

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「老人と海」のコヒマール村、ヘミングウェイの邸宅

2015-12-10 11:34:15 | キューバ

ハバナから三十分ほどの小さなコヒマール村は、ヘミングウェイが「老人と海」の舞台にしなければ、これほどまでに観光地にならなかっただろう。
訪れてみると・・・アメリカ時代に区画整理された市街地も今はくたびれ果てていた。

華やかな雰囲気はほとんどないし、かつての邸宅は廃墟のよう(人は住んでいる)↓

「老人と海」の映画が撮影された1950年代なかごろには、裕福なアメリカ人たちが滞在していた名残が感じられる。
この立派は廃屋はホテルに改葬されることが決まったそうだ↓

ヘミングウェイいきつけの店「ラ・テラッツァ」は、そんなくたびれた町の中に突然あった

このちかくだけ観光バスがずらりと止まっている。
この店にだけ、続々と観光客が昼食をとりに入ってゆく。
海に向かって張り出した、たしかに雰囲気のよい空間↓

我々もバンドを聴きながらランチ

壁にはこんな巨大サメの写真が飾られていて↓

「老人と海」のラストのように巨大なカジキまぐろもばりばり喰っていたんだろうなと思わせる。

フィデル・カストロとヘミングウェイはここで一度だけ会っている。
共に釣り大会に参加して、フィデルが優勝したのだそうだ。
革命から二年もたたない時期にも、フィデルは一個人としてのアメリカ人となら楽しく会っていたのか。
国家と個人というのは、いつも分けて考えなくてはならない。


「ラ・テラッツァ」から港の小さな要塞までは五分もかからない

映画「老人と海」の中でも、何度もこの場所が出てきていた。
あの話はヘミングウェイが実際にここできいた話がモデルになっている。



ギリシャ風の円形列柱の中にヘミングウェイの胸像がある

ヘミングウェイが1961年に猟銃自殺すると、コヒマールの漁民たちは悲しみ、自分たちの船のスクリューを持ち寄って、この銅像をつくったのだそうだ。


★後日、映画「老人と海」を見せてもらった時、意外な事が分かった。ギリシャ風の円形列柱が映画の中にも映っていて、その時にはヘミングウェイの胸像は存在していなかったのである。


***コヒマールからさらに三十分ほどバスに乗り、ヘミングウェイが19年間暮らした邸宅を訪問する。
四ヘクタールの敷地を持つお屋敷の入口がこれ↓

門柱を入ってすぐ左に野球のグラウンドがあり、地域の子供たちのために解放されていた場所だそうだ。
しばらくいくと小高い丘に邸宅が見えてくる。
この場所にはスペインが築いた見張り砦があった。
今でもその石垣の一部は残っている。
本宅のすぐ右に、ヘミングウェイの息子が滞在した家がある↓

息子は父の四番目の妻とは折り合いがわるかったので、離れを建てて住んだのだそうな。

こちらがヘミングウェイが暮らした本宅の入口↓

お客が到着するとポーチの鐘を鳴らし、ドアを開けると左右に小さな大砲を鳴らして歓迎した。


家と敷地はヘミングウェイの四番目の妻がキューバ政府にそのままのかたちで遺贈した。半世紀後の今も当時の様子がそのままになっていて、いまにもどこかでヘミングウェイがくつろいでいそうな雰囲気がある。


基本的に中へは入れず、窓から中を覗き込むかたちで見学する。
どの部屋も本がぎっしり入った本棚が置かれている。
趣味の狩りで得た獲物の剥製もほとんどすべての部屋に飾られていた↓

剥製とともに当時の芸術家たちの作品も置かれている。
碑の差し込むほそながい部屋の壁にかけられているのはジョアン・ミロの作品だとか↓

こちらの闘牛のオブジェは、イタリアの独裁者ムッソリーニが気に入って「いくらでもいいから売ってくれ」と、数字の書かれていない小切手を送ってきたそうだが、ヘミングウェイは「返答不能」の印を押して返してしまった↓


ワードローブの軍服と靴↓

ヘミングウェイは「男っぽい」ライフスタイルをことさら演じていたように感じる。

妻の趣味だった天体観測のために建てられた塔もある↓

風が通る三階部分は「夫が執筆するのによい環境になるだろう」と思って用意されたそうだが、
ヘミングウェイは下の部屋で書くことが多かったという。
痛めた膝がつらかったのかもしれない。


ひろい庭の一角には所有していたボートが置かれている。
かつてはコヒマールの港につながれていた↓

写真で手前に写っている四つの墓は犬たちのもの。
猫も大好きで五十匹以上いたのだそうだが、多すぎるからかその墓はみあたらなかった。


****


ハバナまで一時間ほど走る。ホテルの近くのスーパーマーケットでなにか買ってとおもったのだが・・・ここで我々は★真実のキューバを見つけることになった

※キューバのスーパーの実態をこちらに書きました


いやはやこんな品揃えだとは…ガイドさんも先に教えてくれればよいのにと思ったが、こういうことって自分の目で見ないと、いくら言われても納得できないもの。パッケージツアーでは見ることができない素顔のキューバと言える。

ひとやすみして、夜九時過ぎにホテルを出発。
1935年から続くキューバ一のキャバレー「トロピカーナ」のショーを見学。
なんと、屋外にある千人規模の施設。
22時から24時まで、ノンストップで見ごたえのあるステージが繰り広げられた。


 

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ハバナ~モロ要塞とカバーニャ要塞、ゲバラの博物館

2015-12-10 08:03:57 | キューバ

ハバナ湾は一本の水路で外海とつながった良港である。その入口を守るために1584年から1640年まで半世紀以上をかけて建設されたのがモロ要塞。下の衛星写真地図をみると、その位置の重要性がわかる↴

水路を挟んで対岸にあるプンタ(岬)要塞との間に巨大な鎖を渡して、ハバナ湾の出入りをコントロールしていた。鎖は朝六時に下げられ、午後九時に引き上げられる。要塞の入口に俯瞰写真が入口に掲げられていた⇒

中に入る前に、外側から水路を挟んでハバナ旧市街を見晴らす⇒きのうの青空と違い視界が悪いが、それでも対岸にハバナのスカイラインがずらり。ひときわ多いなクーポラは、アメリカの連邦議事堂とそっくり。アメリカ支配時代の建物である。 今しも、奥の湾から巨大な船がやってくる⇒

1762年の6月、スペイン本国が七年戦争でプロイセンと戦っていた時、プロイセン側についていたイギリスが不意に襲ってきた。三か月包囲され、堅固な城壁の中に籠城したが、海側の一角を爆破され、陥落した。爆破された部分は今でもそのままになっていた⇒ キューバ全土は未だスペインの支配下にあったが、最重要のこのハバナだけはイギリス支配下となり、スペインはイギリスと交渉する。なんと、領有していたフロリダ半島とこのハバナ一都市を交換したのである。これによって、フロリダはイギリス領となり(※アメリカ独立戦争前である)、翌年ハバナはスペインの手に戻った。

この要害には、現代にいたるまでたくさんの大砲が設置されてきたのがわかる。今でもその残骸がたくさんみられる⇒ 1963年のいわゆる「キューバ危機」の際にはアメリカ軍の侵攻も十分あり得る事だったので、コンクリートのトーチカも建設されている。今でもその銃眼や大砲台はそのまま↴

柵なんてないので、気をつけましょう 堀は17世紀からそれほど変わっていないのだろう、手すりのない急な階段がある。降りるのも落ちるのも自己責任⇒

モロ要塞入口⇒ 当時の大砲は一発20㎏の重さ⇒ こんな恰好の兵士がいたんでしょうね⇒ キリスト教徒にとって不可欠な礼拝堂もある⇒ここ埋葬されるのはそれなりの位にあった人だけ。

灯台は新しいものだがのぼってみよう上まで行ったら管理人さんに「今日はテラスが滑りやすいからクローズ」と言われた。今でも現役の灯台である。一枚だけ写真を撮らせてもらった。ハバナ港への水路がよく見える⇒

***バスに乗って、すぐとなりに建設されたカバーニャ要塞へ向かう。 スペインはイギリスによる手痛いハバナ占領を繰り返させないために、南北アメリカ大陸で最大の面積を誇る大要塞を、わずか十年ほどで建設した。カバーニャとは粗末な納屋のこと。イギリス軍はモロ要塞を攻略する際、粗末な納屋があっただけのこの丘を占領して大砲を設置し、モロ要塞を砲撃したのだった。

入ってすぐのところに、世界最長の葉巻をつくった職人さんがいる⇒この写真で写っている背の高い黒人さんがその人。これは蝋人形なんですけどね(笑)、本物は奥の有料エリアにてお待ちしております。

1994年にフィデル・カストロがフランスのテレビ局と共にやってきた時の写真があった⇒

18世紀の大砲⇒カルロス四世の名刻まれている。マドリッドのプラド美術館にあるゴヤの描いた何枚もの絵が有名ですね。 ここでは今でも午後9時になると、かつて港の鎖を閉める合図だった大砲を一発撃つという儀式が行われている。観光客がいっぱいで、良い場所で見るには一時間ぐらい前から場所取りをしておかないとダメなのだそうだ。

カバーニャ要塞は現代でも守りの要だったので、1959年1月1日に革命が成功してすぐに、ゲバラがカバーニャ要塞司令官に任命された。彼が執務していたのがこの建物⇒現在修復中なので、ゲバラの博物館は別室にある⇒一部屋だけのものだが、ゲバラが使っていたニコンのカメラがある⇒26歳のゲバラはメキシコシティで写真屋をやっていたほどの腕前。フィデル・カストロの兄弟と出会ってキューバ革命へ導かれていった頃だ。ゲバラがボリビアで殺され、その遺体は1997年にやっと発見された。その場所の土

****再びバスに乗りカバーニャ要塞のすぐちかくにあるゲバラの第一邸宅へ向かう。途中、アメリカ軍のU2偵察機の残骸が展示されている。キューバ危機の時に撃ち落したものだそうだ⇒ 

巨大なキリスト像は1958年のクリスマスに完成して、革命で一週間後に国外逃亡することになるバティスタ将軍もやって来たのだそうだ。 すぐ近くにあるこの家がゲバラ住んだ最初の家入口に大きく彼自身のCheというサインが拡大して描かれている。入ってすぐ左に、家にいるときの仕事部屋⇒ここに彼は二度目の妻になるアレイダと暮らしていたが、結婚前だったので部屋は別にしていたのだとか チェスも好きだったゲバラ ジャングルでの闘争のさ中でも、村の人たちを教える事を怠らなかった。この写真はその貧しい屋外学校⇒

1997年、キューバに戻ったゲバラの遺骨をおさめて式典に出されていた箱↴

*****

午後はヘミングウェイ「老人と海」ゆかりのコヒマールへ向かう

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ハバナ~クラシックカーで爆走して革命広場へ

2015-12-09 22:25:55 | キューバ

じゃ~ん!キューバ名物クラシックカーずらり登場これから革命広場を経由してホテルまで小一時間のドライブを楽しみます(^^)

アメリカの経済封鎖が続くキューバでは、新しい車はなかなか手に入らない。1959年の革命以前からあるアメリカ車が現役なのは、それを乗り続けるしかなかったから。古くて動かなかった車体をいろんな工夫でカムバックさせているタクシー運転手も多いんです小松の乗った車もキャデラックとなっていたが、ドライバーに訊ねると「エンジンはシトロエン」とのこと。いや、ぽわんぽわんとしたサスペンションは、台車ごとシトロエンかもしれませぬ。
映画の中に入ったみたい
いざスタート! アルマス広場を出て海岸沿いのセントラル地区海岸をびゅんびゅんとばしてゆく
この時期のキューバは暑すぎなくて、こういう遊びにはもってこいオープンカー数台で抜きつ抜かれつ爆走してゆくと、自然に声が出てたのしくなってくる。とつぜん乗っていた車が「ぶひぃぃ~ん!」と馬みたいな声をあげた。「ぅもぉおおおお!」っと牛もいる。このクラクション、楽しすぎますまわりを走る車も大笑い。指さしてカメラ向けてくるみんなで暴走するのは楽しいなぁ(笑)ハバナの道はまだまだ車が少なくてほとんど渋滞なんてしないし。「シートベルト締めて」ともいわれない。だいたいシートベルトなんぞない車も多いし


大騒ぎに疲れたころ、正面に印象的な「ホセ・マルティの塔」が見えてきた。あそこが革命広場である↴

★革命広場 

このホセ・マルティの塔は高さ107mでキューバ一高い。上からみると星形をしているそうな。ホセ・マルティは19世紀末第二独立戦争の英雄である。下に彼の大理石の像が建てられているのがみえる。 この広場周辺はキューバ政治の心臓部にあたる。上の写真で見えているビルは防衛省。

広場を囲うようにして、経済省、図書館、郵政省、内務省、劇場が建てられている。広場に集まった人々に向かって塔の下から演説すフィデル・カストロは、郵政省と内務省のビルに掲げられた亡き友人二人の顔を見ていたのか↴

左はもちろんチェ・ゲバラ。アルゼンチン人であるにもかかわらず、キューバ革命に身を投じた。肖像の右下に書かれている言葉は「Hasta la victoria siempre」単純に訳すと「勝利まで、いつの日も」となる。これはキューバ革命後に他国の革命に力を貸すためにキューバを出ることを決めた彼が残した「別れの手紙」の一節。この言葉、ゲバラをたたえる歌の題名にもなって⇒ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブも演奏している※ゲバラについてはまた別のところで書きます⇒

向かって右の郵政省の建物に掲げられているのは、ゲバラの同志にして良き友人であったカミーロ・シエンフエゴ。カストロやゲバラとちがい、ハバナの庶民階級・スペインから移民した仕立て屋の息子だった。二十一才の時にアメリカに渡りニューヨークやシカゴで労働者として働くが不法滞在でキューバに送還され、政治活動に目覚めていった。

革命後にフィデル・カストロが矢継ぎ早な改革をはじめた1959年、カミーロに「これでよいのだろうか」と不安をもらしたとき、カミーロは「Vas bien,Fidel」=「それでいいんだよ、フィデル」と言ったとされる。その言葉が、右下に書かれている⇒

フィデル・カストロは、この広場で、時には三時間を超える演説を原稿なしで行った。その時、亡き友人二人が彼を見守っていたのかと思う。

*****

再びクラシックカーに乗り、ミラマーレ地区のホテルへもどる。また特徴的なロシア大使館がみえてくる

******夕食は再び旧市街へ。ここもヘミングウェイが訪れていたラ・ボデギータ⇒そこら中に落書きがあふれている。これが伝統の店 前菜に豚の皮を揚げたもの⇒ そして、キューバの主食である米をつかった大豆ごはん「コングリ」⇒これ、日本人には合う味です。 もちろんバンドもやってきて、ハバナの夜は社会主義国とはいえとてもフレンドリーでゆるい雰囲気になる

 

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