旅倶楽部「こま通信」日記

これまで3500日以上世界を旅してきた小松が、より実り多い旅の実現と豊かな日常の為に主催する旅行クラブです。

ティボリの旧市街、古代とロマネスクの面影を追う

2016-11-01 17:33:10 | イタリア

ティボリ旧市街で二時間半の昼食をゆっくり楽しんで、旧市街歩きに出発。レストラン周辺の雰囲気ある路地。中世雰囲気だけでなく、古代の名残さえ感じられる。

  

日本のツアーでティボリというと「エステ荘」ばかりで、旧市街を歩くものは、ほとんどない。ゆえに、モデルコースというものも、ない。小松が調べてみてリクエストしたものを、ガイドのUさん、よくご案内くださいました。

●サン・シルベストロ教会 ※イタリア語ですが下記のページから、より雰囲気の分かる写真が楽しめます。

http://www.visittivoli.eu/luoghi-di-culto/chiesa-di-san-silvestro&lang=IT

何の装飾もない四角な入口から入ると↓

正面祭壇は11世紀のフレスコ画でぎっしり埋まっている↓

聖シルベストロはコンスタンティヌス帝に洗礼をさずけた四世紀の法皇とされる。彼に捧げられた教会。もとは12本の大理石が内部を三つの廊下に分けた、二階建ての建物だったのが分かっている。 前出の写真↑のように、現在その柱は一つも残されていない。キリスト教以前、古代の建物だったのだろう。とりこわされて11~12世紀に現在のレンガ造りなった。その時に、画かれた、シルヴェストロの生涯のフレスコ↓ ひと目見て、ラヴェンナのサンタ・アボリナーレ教会(新旧両方)を思い出させる。十二使徒を表す羊や図像。ビザンチン的↓

細長い窓が12世紀のロマネスクを感じさせる。横に回ってみると、ひとつだけ小さなロマネスクの窓が残されていた⇒

大聖堂方向に登ってゆく坂道は古代のティブルティーナ街道だった途中に立派な巨石をつかった門の跡をみつけて、納得↓

さっき、見えていた立派な鐘楼は?↓

 

路地から大聖堂のある広場へ通じるところにあるこの小さなアーチ。あとから調べてみると古代には公共広場への入口を示していたもので、「サンタ・シンフォローザのアーチ」と呼ばれていると知った。なにげなく存在し続ける古代↓

●ティヴォリ大聖堂(バジリカ・サン・ロレンツォ) は、やっと午後のオープン時間となった↓

↑大聖堂のファサードは1650年に入口柱廊が増築されているが、鐘楼はオリジナルのロマネスク様式の雰囲気がよく感じられる。内部はバロック⇒●右奥の礼拝堂に 「13世紀の木彫群像」があると、ツーリングクラブ・イタリーのガイドブックに書かれていたが、それは現在街の博物館に収蔵されているとのこと。代わりに簡素ながら雰囲気のある磔刑木造が置かれていた。 ●左三番目の礼拝堂には12世紀の救世主の祭壇⇒こちらは15世紀の奉納覆い(写真左に写っている銀製のモノ)から外され、拝観することが出来た。※これがいつものことなのか、今日が「全聖人の日」だったからなのは不明

奥から地下のクリプトへ降りることが出来る。目を惹いたのは古代のモノかと思われる太い柱⇒

大聖堂前は古代のフォロでもあったから、「メンサ・ポンデラリア」と呼ばれる一世紀の計量所のあとも見つかっている。下の写真で屋根のかかっている下に発掘中の場所が見えた↓

大聖堂すぐ近くには中世から近代まで使われていただろう「洗濯場」⇒

***

もうひとつ、見たかったロマネスクの教会・・・そこへ行く道に市立博物館があった。かけられていた写真には、元は先ほどの大聖堂にあった「磔刑群像」の木彫が載せられていた。また、訪れる機会に(いつ?)見てみたい⇒

●サン・ピエトロ・アッラ・カリタ

五世紀の創建と伝えられる。↑簡素なファサードに、表面にかつてつけられていただろう装飾か構築物をはぎとった跡が見られる。

内部はより古代的な雰囲気が残されている。柱はハドリアヌス帝のヴィラから持ってこられたものと推察される古代イオニア式↓

床は復元されたものと思われるが、コズマティ様式のモザイク↓

右奥からクリプタ(地下聖堂)へ降りることが出来たが、目につくものは見つけられなかった。※翌日、ティボリ庭園からこの教会の後陣を見上げると、入った場所は「地下」というより崖の一角だったのを知った。みごとなロマネスクの形状が見られた↓

「エステ荘」のように世界遺産にはなっていないが、見ごたえのあるティボリの旧市街である。

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神殿にあるレストランで昼食を~ティボリ旧市街

2016-11-01 15:58:32 | イタリア

ヴィラ・アドリアーナをたっぷり見学して、お昼にはティボリ旧市街に入った。

この旅で出発前に「ここで食べよう」と唯一決めていた、古代神殿があるレストラン。期待をうらぎらないすごい場所だった↓ 現地に詳しい手配会社に教えてもらって知った。こういう場所はグルメ検索だけではなかなか見つけられない。お勧めいただいたK氏に感謝いたします↓

はるか下にアニエネ川を見下ろす崖の上、共に紀元前二世紀頃のふたつの神殿

解説版を読んでいたら、今立っている場所そのものが人造の地面なのだと知った。

遠景から撮った写真を確認すると・・・おお、たしかにこの下にアーチ構造が見える↓※赤い「SIBILLA」と書かれた建物がそれ↓

上の写真、左手前の旧市街も、同じように古代に人造で補強されts地面であることがわかる↑

さらに、下の写真↓手前の橋の影が写っている部分に見える滝も、中世に法皇がつくらせた地下水道からの人工の滝であった↓

神殿、近寄って見るととても保存状態が良い↓

●ティブル(ティボリの古代名)のシヴィラ(巫女)の神殿は円形をしている。18本のうち10本の柱が見事に残っている↓

天井部分の装飾も一部見える→フリーズの装飾は牛の骨と聖杯と植物↓その下に、「L.GELLIO.L.P」の文字。これは紀元前72年の執政官(コンスル)だったルキウス・ジェリオ・プブリコラが刻ませたと推察されているが、どのような理由でこの神殿に名前が刻まれたのかは不明↓

逆の方から見ると、内部構造は古代のコンクリートをつかっていたと分かる↓

古代の建物がこれだけよく残っているのは、中世にキリスト教の教会(サンタ・マリア・ロトンダ(円形の))として使われていたから。

もうひとつの長方形の神殿↓こちらもまた「サン・ジョルジョ教会」だったのでよく残っている。

街の創設者とされる伝説の●ティブルヌスに捧げられた神殿、もしくはヘラクレス神殿。建設はこちらの方が前者より半世紀ほど早い紀元前150年。

ふたつの復元図がこちら↓

現在の様子⇒ 

・・・さて、お食事(^^) 今日11月1日は「全聖人の日」でイタリアは休日。秋晴れの気持ち良い午後、屋外のテーブルもすぐにいっぱいになった。 ゆっくり時間がないとこういう場所は楽しめない。まずは、こんな「突出」が登場!

 

「山の前菜」と「海の前菜」どちらにしよう・・・どっちも食べよう(笑)こちらは海の前菜↓右上の肉に見えるのもカジキマグロのグリル↓

「山の前菜」を三人前注文したら、こんなふうに一緒に盛られて出てきた↓全員同じメニューを食べるのはむずかしいけれど、その方が良い。全部食べたら、次のリゾットもメインのお肉も食べられなくなってしまいますから↓

 

午後一時半、お店のスタッフはとても忙しそう。待たされてもよいスケジュールでなければこういう店での食事は楽しめない。一時間でスリーコースと決められるより、楽しめる食事とはこういうもの。

エビときのこのリゾット。おいしくないわけがない⇒食べ始めてからはっと気づいて撮影⇒

メインは肉のグリル盛り合わせ。お店の入口で炭火焼していたのを見て、「これが食べたい!」と思ったメンバーも多かったのです(^^)

牛と豚と羊とソーセージと、炭火で焦げたところがまたおいしいんです。甘いつけあわせのお芋も。

長くなっって来たので、ティボリの街歩き、次のページにて載せることにします。

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ヴィラ・アドリアーナ~ハドリアヌス帝の記憶

2016-11-01 10:04:34 | イタリア

紀元後117年の即位、その翌年には建設をスタートして、在位中の約二十年間ずっとつくり続けられていたハドリアヌス帝の壮大な邸宅跡。

帝国の領土をくまなく視察旅行したその記憶が、いろいろな場所に生かされている。なかでもエジプトの運河・ナイル川がイメージのもとになっているこの池=「カノプス」が写真映えするのでよく知られている↓

池の周りを列柱がかこむ回廊になっていたのだ。

***今朝はティボリ郊外にある元修道院のあった場所にあるホテルで目覚めた⇒このホテルの前庭も、スケールはずいぶん小さくなっているが「カノプス」をイメージしていたのだ↓

ホテルのすぐ前からの眺め、ティボリの旧市街が朝陽に輝いている↓

バスで十五分もいくとティボリの街に出る。ピッコローミニ家のものだった城跡がある↓

入口の世界遺産マーク 気にしないでお昼寝するにゃんこ

全体は120ヘクタールと言われるけれど、その中で見学可能に発掘・整備されているのは三分の一程度↓

まずは、上の写真で一番目立つ構造物・長辺二百メートルに及ぶ回廊で囲われていた「ポイキレ」へ。

外側が今は日陰 日向部分の内側の壁上部には、もともと木製の梁があったと思われる穴がある↓

この壁が囲んでいる人工池

離れて振り返った時。池の下部が人造の基礎になっているのがはっきりわかった↓ここは「百の部屋」と呼ばれる、使用人たちの使っていた小部屋がたくさんあつまっていたのだそうだ。古代ローマの土木技術にはいつも驚かされる↓※写真奥の部分

そこから地下に掘り込まれた道が続いているのが分かる↓※下写真手前の深み

 

上の写真で向こう側に見える白い基壇は、2003年に発掘された。

ハドリアヌス帝の愛した美少年アンティノーに捧げた神殿がここにあった。現在はローマ市内・ポポロ広場上ピンチョの丘に立つオベリスクはもともとここにあったもので、そこには「アンティノーここに眠る」と象形文字で刻まれている。 ゆえに、アンティノーの墓もあるのではないかと探されたのだが、見つかっていない。★下の写真はヴァチカン美術館のハドリアヌス帝胸像(右)と、アンティノー胸像(左)↓

 

****

使用人や馬車の通用路だった溝が、皇帝居住区(写真で手前方向)の下まで続いている↓

ここから内廷に向かう道に、浴場がふたつある↓上の穴から蒸気が出ていくようになっていた穴↓

最初に紹介した★「カノプス」が見えてくる

***次から次へ、これでもかと建物群が続く・・・

こちら、もうひとつのテルマエ=★大浴場の跡↓

建物外に、サッカーに似た古代の球技が行われていたというモザイク張りの小グラウンド⇒

●「ペスケリア」と言う名前がついた噴水の周りの歩道↓

★「パラッツォ・ドーロ」=黄金宮殿↓

現在の姿↓

復元図↓

 

オリジナルのモザイク床↓

●ゲストルーム 内部の白黒モザイク⇒

●「図書館」と呼ばれている部分↓

棚がたくさんみつかったので、ここに巻物だった書物が所蔵されていたと想像されている。ラテン語とギリシャ語と別れていたと・・・これらはほんとうに仮説なのだけれど、ガイドブックに載ってしまうと、そのまま真実のように認識されてしまう。

●「海の劇場」は修復中でクローズ。跳ね橋を上げれば外と隔絶した世界になるようにつくらせた、水の上の円形の場所、とされている。復元図がこれ⇒ 壁だけ見えました(T_T)

さらに、丘の上に位置する●ヴィーナスの神殿↓

あまりに広大な、ハドリアヌス帝の夢の跡でありました。

 

 

 

 

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