旅倶楽部「こま通信」日記

これまで3500日以上世界を旅してきた小松が、より実り多い旅の実現と豊かな日常の為に主催する旅行クラブです。

ヴァチカン特別観光

2016-11-03 17:43:48 | イタリア

見たかった★「ブラマンテの螺旋(階段)」

 

 

特別の許可をもらったグループしか入る事が出来ない場所。

 

※⇒こちらから動画ごらんいただけます

 

※⇒こちらに日本の会津「さざえ堂」に至る螺旋の話、書きました

 

***午前中のトラステヴェレ観光を終え、ホテルで二時間休憩。14:45に再びホテルを出て、ヴァチカン特別見学に向かった。ヴァチカン・ミュージアムは見所が多く時間もかかるから体力を回復して、気持ちも新たに訪れてほしかったのであります⇒ 通常の入場、その後特別観光の場合グループに専用の係員が付いてくれて、「特別観光」の入口を開けてくれる。まずは、冒頭の「ブラマンテの螺旋(階段)」。

次の★「マスクの間」は、古代の動物彫刻コレクションの部屋の奥に位置していた。古代も今も、動物に対する人間の視線は変わらない↓

「マスクの間」は、床の中央に古代ローマのモザイク画がはめられているゆえ、そのように呼ばれている↓

周囲を囲む蔦のデザインは、この床をつくった16世紀ごろのもの↑古代のモザイク画と上手に調和させている。

部屋の一角に、おもしろい椅子があった。これが★「法皇が男であることを確かめるための椅子」↓伝説的に語られている

伝説では9世紀に「ジョヴァンナ」という法皇が女性で、当時使っていたラテラノ宮殿からサン・ピエトロ聖堂への行幸行列中に愛人の子供を出産するという「不祥事」が起きたという。これ以後、新法王が男であることを確かめる習慣がはじまり、この椅子に新法王が座ると、枢機卿の担当者が下から穴を見て「"Testiculos habet et bene pendentes"(「彼には、睾丸がある、そして、それはきちんとぶら下がっている」)と宣言する」習慣だったとか(Wikiのweb辞典より)」あるいは、手を入れて触ってたしかめていたとか↓

※⇒こちらにもう一つの椅子の写真を含め、書きました

この椅子、ホンモノをみると高価な赤大理石でできている。そして、実はキリスト教成立以前の古代のモノというのが考古学的解釈だそうだ。赤大理石は古代ローマ皇帝の棺にも使われる高価な材料。この椅子はローマ皇帝ファミリーの出産用の椅子だったのではないか、との仮説である。

それが、法皇庁にて使われたのは、「大地の恵みをもたらす法皇」の椅子として使われた?との推察につながっている。ううむ、謎の多い椅子。だからこそおもしろい。

★ニコリーナ礼拝堂は、ニコラオス五世がフラ・アンジェリコに描かせたフレスコ画でうめつくされた小さな空間。フラ・アンジェリコが遺した大画面フレスコの最高傑作とも言われる。以前は一般観光でも入場することが出来ていたが、小さすぎる場所だからか、近年は「特別観光」でのみ見学できる場所になった↓

※このフレスコについてはまたの機会にふれたいとおもいます

三か所の「特別見学」を終えると、もう16時半近くになっていた。一般的な観光は17時には追い出されてしまう。そこまでの時間で、ラファエロの「アテナイの学堂」をはじめ、著名なフレスコ画で飾られた部屋を見学した。

そして17時。え?これからシスティーナ礼拝堂へ入って良いのですか?↓

我々が入ると、最後に残っていた見学者が出されてゆく。 怪訝そうな人々の視線をうけながら、ヴァチカンのガイドさんと我々十人だけが、システィーナ礼拝堂に残された。

・・・静かだ。そして、広い。 いつも満員電車の様な人の中で見ているので、これほど巨大な絵であった事を忘れていた。振り仰ぐと、降ってくるようにフレスコ画が視界をいっぱいにする。 ・・・なんという迫力、さっき見たフラ・アンジェリコのニコリーナ礼拝堂と比べてはいけないのだろうけれど、スケールも表現力も、桁外れである。 ミケランジェロは弟子を使わず自分一人で画いたなんて、あらためて驚いてしまう。

通常は中でのガイディングも禁止されているシスティーナ礼拝堂だが、この貸切では特別に許されている。ガイドのUさんは時間いっぱいまで、じっくりと解説してくださった。

 

外へ出ると、もう真っ暗 専用のミニバスに乗って、ホテルまで帰る。が、すぐにみんなでカンポ・デ・フィオーリ近くの老舗レストランへ。ここはもとポンペイウス劇場があった場所で、カエサルもその一角で暗殺されたと言われている場所。地下の部屋にはこんなふうに古代の柱ものこされている↓ メニューには、アーティチョークのフライも入れてもらった↓ 「ここのティラミスは絶品ですよ」とのことで・・・ん、たしかにおいしい 「なんと得難いヴァチカン特別見学だったのだろう…」終わってみてひしひし感じている。
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トラステヴェレ徒歩観光

2016-11-03 09:35:32 | イタリア

一般的なローマ観光ではなかなか訪れないトラステヴェレ地区だが、見どころはいくつもある。今朝はシスト橋すぐ近くのホテルから歩き出した。シスト橋は、今日の午後訪れるヴァチカンのシスティーナ礼拝堂を建設したシスト四世によって1475年に建設が命じられた。もともと古代ローマ時代の橋があった場所でその基礎を再利用している↓

すぐ近くにテヴェレの中之島、ティベリーナ島が見える。古代からここは病院であり続けている↓

見学したい教会をいくつかリクエストしたが、開いているところから見はじめた。

●サンタ・チェチリア・イン・トラステヴェレ教会

三世紀に殉教した聖女チェチリア(英語ならセシリア)の家があった場所に建てられたとされている

セシリアの遺体はアッピア街道沿いのカタコンベに葬られていたが、9世紀の法皇パスカリス一世がこの教会に移動させた。内部の突き当りにはその当時9世紀のものとされるモザイク画で飾られている↓

向かって左端に描かれている、四角い光背(生きている人をあらわす)をもった人物がそのパスカリス一世↓

左手前の祭壇は「ローマ一美しい」との評価もある、フィレンツェの彫刻家・建築家アルノルフォ・ディ・カンビオ1293年の制作。

祭壇中央には1599年に棺の蓋を開けた時の聖女の姿を、ステファノ・、マデルノがそのままうつしたとされている「聖女チェチリア」大理石像。遺体は腐敗しておらず、右手で三位一体、左手で天と地を指さしていたとされる↓

この彫刻をつくらせたのは、棺をあける時にたちあったスフォンドラーティ枢機卿。彼の墓も教会入口にあって⇒彼の生涯でいちばんのハイライト、聖女チェチリアの棺を開けた時の様子が彫られていた↓

教会内の上階部分は、こんな格子がはまった窓がたくさんならんでいる。これは、修道女たちが人前に顔をさらさずにミサに出席できるようにつくられた構造であります。

入口のところには、古代ローマの水盤を飾った噴水⇒

※この教会にはジョットと同時代のピエトロ・カヴァッリーニの巨大な「最後の審判」のフレスコ画がある。以前一度だけ見たことがあるが、今回はその時間まではなかった

★サンタ・マリア・デル・オルト教会⇒

「オルト」とは、菜園の意味。ここはもともと野菜畑だった。1488年、中風(麻痺)に苦しむ農夫が、菜園の一角にあったフレスコ画聖母子に祈って回復するという奇跡が起きた。 感謝にと建てた小さな礼拝堂は近在の人がやってくるちょっとした巡礼地になった。主祭壇の真ん中にある絵は、よく見ると確かに壁からはがして設置されたものであるのが分かる↓

1492年アレクサンドル六世法皇によって信徒会の結成が認められ、関連する十二の同業者組合によって現在の教会が建設された。

中央床のデザインも確かに野菜↓

関連する同業者組合がそれぞれの小礼拝堂を持っていた。それを記念する床プレートもある↓

小松がこの教会を選んだのは、ここが日本にも縁が深い場所だから、である。下の写真で、祭壇に掲げられている絵、誰だかわかりますでしょうか?↓

★中浦ジュリアンの肖像~2007年に「福者(聖者の下の位)」に認定された時、記念に奉納された。

九州のキリシタン大名たちが送った、天正の遣欧少年使節団はよく知られている。信長の時代に日本を発った彼らは、三年の年月を費やし、1585年3月ついにローマに到着した。ローマでの宿泊場所のひとつがこのあたりであったとされていて、この教会が完成してまもないころに訪れていたと思われる。また、当時は今ほどには装飾されてはいなかっただろうけれど。また、四人がテヴェレ側河口にあるローマ遺跡オスティアを見学に行った際、荒天で船が難破しそうになったところ、この教会の「オルトの聖母」に祈ったところ静まったという奇跡があったそうだ。

ローマ法皇グレゴリオ13世に謁見する当日、中浦ジュリアンは体調不良で赴けなかったのだが、後日、特別のはからいにより、一人だけ法皇に合う事ができた。 後年「私はローマを見た中浦ジュリアンである」と自己紹介するようになり、殉教の最期の言葉もそれだったとされている。

使節団四人は、八年の旅のあとキリスト教禁教下に帰国。他の三人が病死、追放、棄教、という運命に流されてゆくなかで、中浦ジュリアンだけが殉教を遂げたのであった。

教会の方、我々が日本人だと分かると、下の日本語カードをくださった↓

★サンタ・マリア・イン・トラステヴェレ教会⇒

ローマでももっとも歴史ある教会のひとつ。公認される以前からあったとされている。前廊にカタコンベからみつかったたくさんの石板↓

堂内、突き当りには黄金に輝くモザイク↓

柱は古代の建物からの再利用である↓

正面祭壇の下部に「オイルの泉」のラテン語⇒※これについては⇒こちらに詳しく書きました。

●モザイク近影↓

ビザンチン風のモザイク なかで、ひとりリアルに祈っているのがこのモザイク画を画かせた人物。彼の墓がすぐちかくにあった↓

***

午前中の最後は★「ファルネジーナ荘」へ⇒ ここでいちばん有名なフレスコ画はラファエロの画いた「ガラテアの凱旋」↓

他、ラファエロの弟子筋によって画かれた、ルネッサンスの宝石と呼ばれるのも納得のすばらしいフレスコ画が展開されている。※これらについてはいろいろな人が詳しく書いているので、ここではフレスコ画の画く神話などにはあまり触れずにおきます↓

 

二階のこの部屋に描かれた一六世紀のドイツ語による落書きがおもしろい⇒ ※べつのところで書きます↓

  

正午過ぎ、サンドイッチを買って、テヴェレ川を渡ってホテルに戻る。二時間ほど休憩。

午後はいよいよ「ヴァチカン特別観光」だ

 

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