旅倶楽部「こま通信」日記

これまで3500日以上世界を旅してきた小松が、より実り多い旅の実現と豊かな日常の為に主催する旅行クラブです。

トラステヴェレ徒歩観光

2016-11-03 09:35:32 | イタリア

一般的なローマ観光ではなかなか訪れないトラステヴェレ地区だが、見どころはいくつもある。今朝はシスト橋すぐ近くのホテルから歩き出した。シスト橋は、今日の午後訪れるヴァチカンのシスティーナ礼拝堂を建設したシスト四世によって1475年に建設が命じられた。もともと古代ローマ時代の橋があった場所でその基礎を再利用している↓

すぐ近くにテヴェレの中之島、ティベリーナ島が見える。古代からここは病院であり続けている↓

見学したい教会をいくつかリクエストしたが、開いているところから見はじめた。

●サンタ・チェチリア・イン・トラステヴェレ教会

三世紀に殉教した聖女チェチリア(英語ならセシリア)の家があった場所に建てられたとされている

セシリアの遺体はアッピア街道沿いのカタコンベに葬られていたが、9世紀の法皇パスカリス一世がこの教会に移動させた。内部の突き当りにはその当時9世紀のものとされるモザイク画で飾られている↓

向かって左端に描かれている、四角い光背(生きている人をあらわす)をもった人物がそのパスカリス一世↓

左手前の祭壇は「ローマ一美しい」との評価もある、フィレンツェの彫刻家・建築家アルノルフォ・ディ・カンビオ1293年の制作。

祭壇中央には1599年に棺の蓋を開けた時の聖女の姿を、ステファノ・、マデルノがそのままうつしたとされている「聖女チェチリア」大理石像。遺体は腐敗しておらず、右手で三位一体、左手で天と地を指さしていたとされる↓

この彫刻をつくらせたのは、棺をあける時にたちあったスフォンドラーティ枢機卿。彼の墓も教会入口にあって⇒彼の生涯でいちばんのハイライト、聖女チェチリアの棺を開けた時の様子が彫られていた↓

教会内の上階部分は、こんな格子がはまった窓がたくさんならんでいる。これは、修道女たちが人前に顔をさらさずにミサに出席できるようにつくられた構造であります。

入口のところには、古代ローマの水盤を飾った噴水⇒

※この教会にはジョットと同時代のピエトロ・カヴァッリーニの巨大な「最後の審判」のフレスコ画がある。以前一度だけ見たことがあるが、今回はその時間まではなかった

★サンタ・マリア・デル・オルト教会⇒

「オルト」とは、菜園の意味。ここはもともと野菜畑だった。1488年、中風(麻痺)に苦しむ農夫が、菜園の一角にあったフレスコ画聖母子に祈って回復するという奇跡が起きた。 感謝にと建てた小さな礼拝堂は近在の人がやってくるちょっとした巡礼地になった。主祭壇の真ん中にある絵は、よく見ると確かに壁からはがして設置されたものであるのが分かる↓

1492年アレクサンドル六世法皇によって信徒会の結成が認められ、関連する十二の同業者組合によって現在の教会が建設された。

中央床のデザインも確かに野菜↓

関連する同業者組合がそれぞれの小礼拝堂を持っていた。それを記念する床プレートもある↓

小松がこの教会を選んだのは、ここが日本にも縁が深い場所だから、である。下の写真で、祭壇に掲げられている絵、誰だかわかりますでしょうか?↓

★中浦ジュリアンの肖像~2007年に「福者(聖者の下の位)」に認定された時、記念に奉納された。

九州のキリシタン大名たちが送った、天正の遣欧少年使節団はよく知られている。信長の時代に日本を発った彼らは、三年の年月を費やし、1585年3月ついにローマに到着した。ローマでの宿泊場所のひとつがこのあたりであったとされていて、この教会が完成してまもないころに訪れていたと思われる。また、当時は今ほどには装飾されてはいなかっただろうけれど。また、四人がテヴェレ側河口にあるローマ遺跡オスティアを見学に行った際、荒天で船が難破しそうになったところ、この教会の「オルトの聖母」に祈ったところ静まったという奇跡があったそうだ。

ローマ法皇グレゴリオ13世に謁見する当日、中浦ジュリアンは体調不良で赴けなかったのだが、後日、特別のはからいにより、一人だけ法皇に合う事ができた。 後年「私はローマを見た中浦ジュリアンである」と自己紹介するようになり、殉教の最期の言葉もそれだったとされている。

使節団四人は、八年の旅のあとキリスト教禁教下に帰国。他の三人が病死、追放、棄教、という運命に流されてゆくなかで、中浦ジュリアンだけが殉教を遂げたのであった。

教会の方、我々が日本人だと分かると、下の日本語カードをくださった↓

★サンタ・マリア・イン・トラステヴェレ教会⇒

ローマでももっとも歴史ある教会のひとつ。公認される以前からあったとされている。前廊にカタコンベからみつかったたくさんの石板↓

堂内、突き当りには黄金に輝くモザイク↓

柱は古代の建物からの再利用である↓

正面祭壇の下部に「オイルの泉」のラテン語⇒※これについては⇒こちらに詳しく書きました。

●モザイク近影↓

ビザンチン風のモザイク なかで、ひとりリアルに祈っているのがこのモザイク画を画かせた人物。彼の墓がすぐちかくにあった↓

***

午前中の最後は★「ファルネジーナ荘」へ⇒ ここでいちばん有名なフレスコ画はラファエロの画いた「ガラテアの凱旋」↓

他、ラファエロの弟子筋によって画かれた、ルネッサンスの宝石と呼ばれるのも納得のすばらしいフレスコ画が展開されている。※これらについてはいろいろな人が詳しく書いているので、ここではフレスコ画の画く神話などにはあまり触れずにおきます↓

 

二階のこの部屋に描かれた一六世紀のドイツ語による落書きがおもしろい⇒ ※べつのところで書きます↓

  

正午過ぎ、サンドイッチを買って、テヴェレ川を渡ってホテルに戻る。二時間ほど休憩。

午後はいよいよ「ヴァチカン特別観光」だ

 

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アッピア街道、ローマの水道橋公園、カタコンベ

2016-11-02 18:29:01 | イタリア

ローマの街から少し出たところに、240ヘクタールに及ぶ「水道橋公園」が整備されたのは1988年だったそうだ。夕暮れの光に、ローマの松と水道橋のシルエット。今、古代と同じ風景を見ているのか。

ここには、なんと七本もの水道橋があつまっている。上の写真の水道橋にはそのうちの二本が通っていた。紀元後一世紀のクラウディウスの水路は全長69㎞。そのうち54㎞は安全な地下を通している。地上に出ているのは14キロで、どうしても高架にせざるを得なかった長さは9.4㎞。 一人あたりが使えた水の量は現代のローマよりも多かった。

最盛期には全部で11本もの水道がローマへ向かって水を運んでいた。

***午前中にティボリの「エステ荘」を見学し、お昼にはローマの中心部に入った。前菜の野菜バッフェ、アーティチョークが美味しいのはさすがローマ。「かるくしよう」とピッツァにしたが、とんでもありません。がっつりいただくことになりました(^^)

  二年半ぶりに見たコロッセオは、掃除されてきれいになっていた↓

***午後はアッピア街道周辺を見学する。

アウレリアヌスの城壁を出る

もっとも繁栄した時代のローマ帝国は、首都の周りに城壁を築く必要などなかった。この城壁は再び外敵から攻められる危険が出てきた紀元後三世紀後半AD271-5年にかけてアウレリアヌス帝が建設させたものになる。

もっとも保存状態の良いサン・セバスティアーノ門↓は、古代は「アッピア門」という名前だった↓

ここを出ると、「ドミネ・クオヴァディス教会」がぽつんと建っている↓ローマでの迫害から逃げだしたペテロが、死んだはずの主キリストがやってくるのに出会う。驚いて「主よ、どこへ行かれますかDomine Quo Vadis ?) 」と問うと、「お前が逃げたローマへ、再び十字架にかかりにゆく」とこたえて、姿が消えた。そこに残された足跡の上に建てられた教会だ↓

内部には当時の街道の石畳とされるものが残されており、一方にペテロの姿、向かい合ってキリストが描かれている↓前に見える白い石にキリストの足跡がある(現在はレプリカで、ホンモノは後述の教会に移された)↓

***再び車に乗り、サン・セバスチャン教会+カタコンベに到着↓

カタコンベとはギリシャ語で「掘った穴」というほどの意味。造られていった当時は「チミテロ」(「休む場所」という言葉からきて、今も「墓」という意味で使われる)と、呼ばれていた。 キリスト教徒の隠れた場所というわけではなく、古代からの埋葬場所であった。

現代にいたるまで忘れ去られていたカタコンベだが、この周辺には全部で67も見つかっているそうだ。現在公開している有名どころはせいぜい四つ五つ。これらの中はすべて遺体は取り出され、見学コースが整備されている。教会の地下へ降りてゆく階段↓

左右には発見された文字や絵のある石板が、数えきれないほど展示してある。

ところどころで広くなった場所があり、そこで儀式をしたとされている。キリスト教禁教時代、処刑されたペテロとパオロの遺体は、共にこの一角に安置されていたとされる。ゆえに、ここが大事な巡礼場所のひとつになっているのである。

もっとも驚いたのは、キリスト教以前の墓がさらに下に埋め込まれていたこと。下の部分は1922年に教会の真下から見つかった空間。紀元後二世紀の地面(現代より五メートル以上は低い)から、さらに下に位置している共同埋葬所。現代的なストゥッコ装飾がされた天井↓

 ここから真上にあがっていくと、教会の床になっているのであります↓

ディオクレティアヌス帝に殺された聖セバスチャンの遺体もここにある。先ほど訪れた「クオヴァディス教会」にあったキリストの足形のオリジナルも、こんあふうに展示されている↓

バロック彫刻の巨匠ベルニーニの最後の作品だという胸像彫刻が隣に飾られている↓

***

アッピア旧街道の石畳を踏んでみたい、それが残されている場所はそれほど多くない↓

ローマの街道沿いにはたくさんの墓があった。すぐ近くには、紀元前一世紀の「チェチリア・メテッラの墓」が、円筒形の巨大な姿を見せている↓

ここに葬られたとされるチェチリアは、カエサルと三頭政治に参加した大富豪クラッススの妻。すぐ後ろにみえるのは12世紀に建てられた要塞で、チェチリアの墓もその天守閣の役割を担わされていたのだった。逆側から見るとこんな風↓

紀元後四世紀、マクセンティウス帝の競技場の跡もある↓

冒頭の「水道橋公園」を見学してから、ちょうど夕暮れてきたラテラノ教会の前を通り城壁内に入る↓

今回のホテルは、トラステヴェレからシスト橋を渡ってすぐのところにある小さな四つ星ホテル。この立地が、今回のローマ滞在の質をひと味違うモノにしてくれた。テルミニ駅あたりに泊まっていてはナボナ広間までふらりと歩いていくわけにはいかないから。ホテルの前の通り⇒ チェックインしてから、夜のナボナ広場までみんなで散歩にでかけた↓

ここは古代ローマの競技場の上に、そのままの楕円形につくられた広場。地下を見下ろすとそれがよく分かる場所もある↓

ホテルへの帰り、レストランや食材屋さんでいっぱいのカンポ・デ・フィオーリでちょっと買い出し。お昼をゆっくりおいしくたくさん食べたから、夕飯を無理にスリーコースにする必要はないのです↓

明日はトラステヴェレ徒歩観光と、いよいよの「ヴァチカンの特別観光」。わくわく。

 

 

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ティボリの「エステ荘」

2016-11-02 11:02:25 | イタリア

ティボリ見学といえば、まずは「エステ荘」の見学。久しぶりに訪れたが、確かに見所だと思う↓あまりに有名な場所なので、ここでは簡単な紹介にいたします。

入口は、サンタ・マリア・マジョーレ教会横・かつての修道院への入口から↓

16世紀、ここに住んだイッポリート・デステ枢機卿がこの屋敷と庭園をつくらせた。まずはヴィラの部分。これでもかとフレスコ画がうめつくす↓

ラファエロの流れをくむ、ズッカリ兄弟の手になる16世紀のオリジナル。

  

ここは1912年以降イタリア政府の所有になったそうだが、放棄されていた時期もあるときいた。よくここまで修復されたものだ。

そこからテラスに出ると、はるかな眺望と庭園が同時に見晴らせる。

なるほど、良い位置に建てられたヴィラ 階段下にある「杯」と呼ばれる水盤⇒

それは眺望という意味と共に、噴水に使う水圧を得るために重要。ふんだんな水を使って多彩な噴水を見せてくれている。中でも有名な「百の噴水」がこちら↓

水圧を使って演奏されるオルガン。今も10時半に扉が開いて鳴りはじめた⇒・・・待ったわりには「あ、そういうことね」というものでしたけど(^^)

お天気に恵まれた噴水庭園の散歩だった。

出口にあったリストの来訪を記念する石板↓「巡礼の年・第三年」に「エステ荘の噴水」という曲がある。この庭園の噴水を見た人ならば、なるほどあの水の流れのようだと楽しむことが出来る曲にちがいない↓

https://www.youtube.com/watch?v=IOlupDtywCQ

 

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ティボリの旧市街、古代とロマネスクの面影を追う

2016-11-01 17:33:10 | イタリア

ティボリ旧市街で二時間半の昼食をゆっくり楽しんで、旧市街歩きに出発。レストラン周辺の雰囲気ある路地。中世雰囲気だけでなく、古代の名残さえ感じられる。

  

日本のツアーでティボリというと「エステ荘」ばかりで、旧市街を歩くものは、ほとんどない。ゆえに、モデルコースというものも、ない。小松が調べてみてリクエストしたものを、ガイドのUさん、よくご案内くださいました。

●サン・シルベストロ教会 ※イタリア語ですが下記のページから、より雰囲気の分かる写真が楽しめます。

http://www.visittivoli.eu/luoghi-di-culto/chiesa-di-san-silvestro&lang=IT

何の装飾もない四角な入口から入ると↓

正面祭壇は11世紀のフレスコ画でぎっしり埋まっている↓

聖シルベストロはコンスタンティヌス帝に洗礼をさずけた四世紀の法皇とされる。彼に捧げられた教会。もとは12本の大理石が内部を三つの廊下に分けた、二階建ての建物だったのが分かっている。 前出の写真↑のように、現在その柱は一つも残されていない。キリスト教以前、古代の建物だったのだろう。とりこわされて11~12世紀に現在のレンガ造りなった。その時に、画かれた、シルヴェストロの生涯のフレスコ↓ ひと目見て、ラヴェンナのサンタ・アボリナーレ教会(新旧両方)を思い出させる。十二使徒を表す羊や図像。ビザンチン的↓

細長い窓が12世紀のロマネスクを感じさせる。横に回ってみると、ひとつだけ小さなロマネスクの窓が残されていた⇒

大聖堂方向に登ってゆく坂道は古代のティブルティーナ街道だった途中に立派な巨石をつかった門の跡をみつけて、納得↓

さっき、見えていた立派な鐘楼は?↓

 

路地から大聖堂のある広場へ通じるところにあるこの小さなアーチ。あとから調べてみると古代には公共広場への入口を示していたもので、「サンタ・シンフォローザのアーチ」と呼ばれていると知った。なにげなく存在し続ける古代↓

●ティヴォリ大聖堂(バジリカ・サン・ロレンツォ) は、やっと午後のオープン時間となった↓

↑大聖堂のファサードは1650年に入口柱廊が増築されているが、鐘楼はオリジナルのロマネスク様式の雰囲気がよく感じられる。内部はバロック⇒●右奥の礼拝堂に 「13世紀の木彫群像」があると、ツーリングクラブ・イタリーのガイドブックに書かれていたが、それは現在街の博物館に収蔵されているとのこと。代わりに簡素ながら雰囲気のある磔刑木造が置かれていた。 ●左三番目の礼拝堂には12世紀の救世主の祭壇⇒こちらは15世紀の奉納覆い(写真左に写っている銀製のモノ)から外され、拝観することが出来た。※これがいつものことなのか、今日が「全聖人の日」だったからなのは不明

奥から地下のクリプトへ降りることが出来る。目を惹いたのは古代のモノかと思われる太い柱⇒

大聖堂前は古代のフォロでもあったから、「メンサ・ポンデラリア」と呼ばれる一世紀の計量所のあとも見つかっている。下の写真で屋根のかかっている下に発掘中の場所が見えた↓

大聖堂すぐ近くには中世から近代まで使われていただろう「洗濯場」⇒

***

もうひとつ、見たかったロマネスクの教会・・・そこへ行く道に市立博物館があった。かけられていた写真には、元は先ほどの大聖堂にあった「磔刑群像」の木彫が載せられていた。また、訪れる機会に(いつ?)見てみたい⇒

●サン・ピエトロ・アッラ・カリタ

五世紀の創建と伝えられる。↑簡素なファサードに、表面にかつてつけられていただろう装飾か構築物をはぎとった跡が見られる。

内部はより古代的な雰囲気が残されている。柱はハドリアヌス帝のヴィラから持ってこられたものと推察される古代イオニア式↓

床は復元されたものと思われるが、コズマティ様式のモザイク↓

右奥からクリプタ(地下聖堂)へ降りることが出来たが、目につくものは見つけられなかった。※翌日、ティボリ庭園からこの教会の後陣を見上げると、入った場所は「地下」というより崖の一角だったのを知った。みごとなロマネスクの形状が見られた↓

「エステ荘」のように世界遺産にはなっていないが、見ごたえのあるティボリの旧市街である。

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神殿にあるレストランで昼食を~ティボリ旧市街

2016-11-01 15:58:32 | イタリア

ヴィラ・アドリアーナをたっぷり見学して、お昼にはティボリ旧市街に入った。

この旅で出発前に「ここで食べよう」と唯一決めていた、古代神殿があるレストラン。期待をうらぎらないすごい場所だった↓ 現地に詳しい手配会社に教えてもらって知った。こういう場所はグルメ検索だけではなかなか見つけられない。お勧めいただいたK氏に感謝いたします↓

はるか下にアニエネ川を見下ろす崖の上、共に紀元前二世紀頃のふたつの神殿

解説版を読んでいたら、今立っている場所そのものが人造の地面なのだと知った。

遠景から撮った写真を確認すると・・・おお、たしかにこの下にアーチ構造が見える↓※赤い「SIBILLA」と書かれた建物がそれ↓

上の写真、左手前の旧市街も、同じように古代に人造で補強されts地面であることがわかる↑

さらに、下の写真↓手前の橋の影が写っている部分に見える滝も、中世に法皇がつくらせた地下水道からの人工の滝であった↓

神殿、近寄って見るととても保存状態が良い↓

●ティブル(ティボリの古代名)のシヴィラ(巫女)の神殿は円形をしている。18本のうち10本の柱が見事に残っている↓

天井部分の装飾も一部見える→フリーズの装飾は牛の骨と聖杯と植物↓その下に、「L.GELLIO.L.P」の文字。これは紀元前72年の執政官(コンスル)だったルキウス・ジェリオ・プブリコラが刻ませたと推察されているが、どのような理由でこの神殿に名前が刻まれたのかは不明↓

逆の方から見ると、内部構造は古代のコンクリートをつかっていたと分かる↓

古代の建物がこれだけよく残っているのは、中世にキリスト教の教会(サンタ・マリア・ロトンダ(円形の))として使われていたから。

もうひとつの長方形の神殿↓こちらもまた「サン・ジョルジョ教会」だったのでよく残っている。

街の創設者とされる伝説の●ティブルヌスに捧げられた神殿、もしくはヘラクレス神殿。建設はこちらの方が前者より半世紀ほど早い紀元前150年。

ふたつの復元図がこちら↓

現在の様子⇒ 

・・・さて、お食事(^^) 今日11月1日は「全聖人の日」でイタリアは休日。秋晴れの気持ち良い午後、屋外のテーブルもすぐにいっぱいになった。 ゆっくり時間がないとこういう場所は楽しめない。まずは、こんな「突出」が登場!

 

「山の前菜」と「海の前菜」どちらにしよう・・・どっちも食べよう(笑)こちらは海の前菜↓右上の肉に見えるのもカジキマグロのグリル↓

「山の前菜」を三人前注文したら、こんなふうに一緒に盛られて出てきた↓全員同じメニューを食べるのはむずかしいけれど、その方が良い。全部食べたら、次のリゾットもメインのお肉も食べられなくなってしまいますから↓

 

午後一時半、お店のスタッフはとても忙しそう。待たされてもよいスケジュールでなければこういう店での食事は楽しめない。一時間でスリーコースと決められるより、楽しめる食事とはこういうもの。

エビときのこのリゾット。おいしくないわけがない⇒食べ始めてからはっと気づいて撮影⇒

メインは肉のグリル盛り合わせ。お店の入口で炭火焼していたのを見て、「これが食べたい!」と思ったメンバーも多かったのです(^^)

牛と豚と羊とソーセージと、炭火で焦げたところがまたおいしいんです。甘いつけあわせのお芋も。

長くなっって来たので、ティボリの街歩き、次のページにて載せることにします。

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