旅倶楽部「こま通信」日記

これまで3500日以上世界を旅してきた小松が、より実り多い旅の実現と豊かな日常の為に主催する旅行クラブです。

屋久島下見~一湊

2021-07-15 09:40:56 | 国内
屋久島でこんな景色に出会えると思っていなかった。

一湊集落の奥にひっそりつくられた↑「えがおん野」★屋久島島巡り推進協議会の方が時間調整で見せてくださった。四年前も今回も、小松の《手造の旅》にアイデアと人脈を与えていただき、感謝しております(^^)
2017年の屋久島の旅ブログ★吉田集落での里巡りはこちらからごらんください。

一湊集落は屋久島最北端で空港から四十分ほど↓鹿児島にいちばん近く、突き出した矢筈岬の東西に天然の湾がある。

荒天の時に船が避難するにも絶好で、古くから屋久島の表玄関になっていた。

近づくとスマホの地図に岬と二つの湾のカタチがみえきた↑
西側の湾↓

小さいが、ウミガメもあがってくる砂浜↑

↑二度目の島流しの途上、海が荒れてここ一湊に避難。一週間滞在したのだそうだ。2015年に記念碑が建てられた。

↑右側に突き出した矢筈岬は思ったより高い先端=屋久島最北端まで行ってみることにした。

車を降りて五分ほど歩く先導してくださった里巡りガイドさん↑背中の「鯖節」は12月の本番旅の時に見学していただこうとおもっております(^^)

木々がひらけ

先端の灯台にたどり着く。

今日は雨の多い屋久島らしからぬ(笑)青い海と空。
車の通る道の途中に「パワースポット」神社があるという。

階段を下り、海岸の道の先に赤い鳥居が見える↓

神社の奥には穴があって、そこから種子島までつながっているという伝説。

途中に漁師さんの願掛け旗

↓この奥に確かに奥には穴があった

猫が入っていき、種子島でみつかったのだそうな(^^)
**
集落の入口にある樟脳(しょうのう)工場を見せていただいた

樟脳の原料は楠のチップ↑
樟脳は衣類の防虫剤というイメージがつよいけれど、セルロイドの原料であり、安価なプラスチックが登場するまで一大産業だった。

木材をチップにして↑ベルトコンベアで煮沸窯に移動

楠のエッセンスが溶け出した液体をウィスキーのように蒸留する

そうして出てきた液体は三層に分かれている↓

↑上層は油、下は水。その間に固まっているモヤモヤした物質が樟脳↑
セルロイドは発火点が七十℃ほどと低く、映画のフィルムは樟脳が原料のセルロイドでつくられていた時代には火事になることがあった。「『ニューシネマパラダイス』を見ていてなるほどと思いました」と内室さん(右)
※こちらのページに内室さんが屋久島で樟脳づくりをはじめるまでのお話が載っております
プラスチックの登場以前、樟脳は日本中で生産されていたが今は四か所だけしかないそうな。一か月に六百キロの楠チップから六キロほどの樟脳を生産しておられるとのこと。

それでも、ナフタリンなど石油から化学的につくられる製品に比べて、匂いがすっととれてゆく清涼感で根強い人気がある。
今後も商売として続けていける道がきっとあるでしょう(^^)
内室さんにお話していただくことで、一湊を訪れる意味が何倍にもなる。
***

お昼は民宿で、地元の食材をこんな風にだしてくださった。
真ん中の鯖の燻製風味、良いですねぇ(^^) 

↑「豆腐にはこれを」といってだしてくださったのは鯖の煮汁を煮詰めたもの↑
とってもねっとりしているので、出汁で?溶いて使いやすくしたものが右↑こういうのがいつも食べておられる方の知恵です。
右の果物は

パッションフルーツ!
屋久島ではよくつくられるようになったのだそうだ。
※この後訪れた春牧では畑にも入れていただきました。

箸置きはサンゴ↑海岸でひろったもので、

こんなおしゃれなランプをつくっておられました(^^)
そこそこ良い値段で売れたのわかります。

キツイ山登りをしなくても屋久島は見所多い島。
十二月の再会を楽しみにしております!
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ドーバー到着の夕方と夜

2021-07-14 11:42:04 | イギリス
2011年《手造の旅》イングランドより
5月19日 ※こちら当時書いた別ブログ。同じ文章を使います★文中に出てくるクラウディウスは(紀元前ではなく)紀元後一世紀の第三代ローマ皇帝です

ドーバーの海に面したホテルにチェックインしたのは午後八時前だった。陽が長いのでまだまだ明るい。

海を見下ろす崖の上にはドーバー城の城壁が長々と続いている。


《手造の旅》イングランド9日出発。飛行機はJL401便11:45発。料金はBAやVSの方が安かったのだが、帰国日を有効活用できるのでJLを選択。

15:30ロンドン・ヒースロー空港到着。
入国などの後16:30過ぎにドーバーへ向かう。ロンドン周辺の道路混雑はあったが二時間強でドーバーの海が見えてきた。

「ドーバー海峡」という言葉は誰でも知っているが、実際にそこに何があるのか、説明してくれる人はほとんどいなかった。
結果、およそ15年前にブライトンから日帰り観光ツアーをつくって訪れた時に手に入れていた資料がかなり役に立った。「断捨離」ブームだけれど、捨てないでおいてよかった(笑)。

ドーバーは大陸と最も近い場所で、紀元前一世紀クラウディウス帝時代からローマの町が建設されていた。さらにそれ以前の青銅器時代の船なども発掘されており「ラングドンの財宝」と呼ばれる。それは旧市街中心部・マーケット広場にある「ドーバー博物館」が収蔵しているのだそうだ。
**
夕方八時半から町へ散歩に出る。

↑地下道に描かれているバイキング船↑ドーバー海峡両眼は中世はノルマン人たちが支配していた。

対岸のフランス、ノルマンディーはリンゴ酒=シードルが名産。
「サイダーではありません」(笑)なるほど

・・・続く
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デドヴァンク~リーメンシュナイダーとデューラー

2021-07-12 12:11:14 | ドイツ
2008年ドイツの旅より
同じ15~16世紀を、同じ南ドイツで活躍した画家アルブレヒト・デューラーと彫刻家ティルマン・リーメンシュナイダーが顔を合わせていたのかはわからない。いかに優秀であっても一介の職人たちについて五百年後に伝わることは少ないから。残された仕事だけが、お互い影響を与えあっていただろうことを今に伝えてくれている。

左はデューラーの版画、右はリーメンシュナイダーの木彫より。

ロマンチック街道のローテンブルグの城壁外にデドヴァンクという集落がある。

周囲の家の少なさに似つかわしくない立派な教会↑
教会に置いてあった解説によると西暦968年にヴィユルツブルグの司教によって建立されたそうだ。

現在の建物が一千年前そのものではないだろうが↑こんなロマネスクの小さな窓はその歴史を感じさせる。


ここに置かれた「十字架祭壇」はリーメンシュナイダーの手になる彫刻がはめこまれている↑
もともとはローテンブルグのミカエル礼拝堂のために1508年ごろに刻まれた浅浮彫の群像彫刻。
ミカエル礼拝堂が1653年に失われ(おそらくローテンブルグがプロテスタント都市となったため)、城壁外のここに移された。
より小さな場所に移動するため彫刻はもとの祭壇から外され、現在のちいさすぎる祭壇にはめ込まれた。
その証拠に↑左右のパネルを合わせた長さが中央より長いので閉じることができない。
・キリストの下帯は折れて短くなっている。
・足元にあった(かもしれない)マグダラのマリアなどの像は行方不明となった。
・右の見上げる男(リーメンシュナイダーの自画像と推察されている)の視線はキリストより遠くを見ている。

上のようなことを解説したぺら紙解説を読んでいたら、「十字架の右のターバンの男はデューラーの版画がもとになっている」とさらっと書かれていた。検索で探してみると↓この作品がみつかった↓

おぉ、リーメンシュナイダーがこの版画をモデルに彫ったにちがいない(^^)冒頭の比較写真ごらんください。
この版画は「トルコ人の家族」そのもの。
リーメンシュナイダーは男性の姿だけを切り離して、
ユダヤの大司祭カイアファ?(聖書の中の誰なのかは断定できない)として写し取っていたのか。

「右のパネルはマルティン・ショーンガウワの作品をもとにしている」
と書かれていたので、検索で探してみると↓

↑これが見つかった。たしかに、リーメンシュナイダーはこの版画を見ていたに違いない↓


マルティン・ショーンガウワはリーメンシュナイダーよりも十歳ほど年長。
デューラーが遍歴修行をしているとき、教えを請いにコルマールを訪れたが前の年に亡くなっていた。
※2010年にコルマールでショーンガウアの作品を見た時のブログがあります

版画はこの時代にもっとも流通した美術だったのではないかしらん。
彫刻は持ち運びが難しい、絵画はもう少し動かしやすいが何枚も同じものをつくりだせない。
版画ならば量産して庶民にも買うことができただろう。
文字が読めなくても、描かれていることを解説してもらって楽しめただろう。

リーメンシュナイダーの工房にはこういった版画がたくさんストックしてあって、必要に応じてモデルにしていたのか。
一方、デューラーも遍歴修行をしていた時に、すでに活躍をはじめていた十歳ほど年長の彫刻の達人の話を耳にしていなかったかしらん。これらの彫刻があった元祭壇がつくられた1508年にはデューラーはニュルンベルグに工房を構える超売れっ子だった。
リーメンシュナイダーが自分の版画を元ネタにした作品を彫っていたのを知っていたかしらん。

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帝国都市祭と城壁の外から見上げるローテンブルグ

2021-07-08 09:51:31 | ドイツ
2005年南ドイツの旅より
時代劇の中にまよいこんだようだった。

いちどだけ街をあげての「帝国自由都市祭」に行きあわせた。

中世ヨーロッパの雰囲気を色濃く感じさせるローテンブルグは、ロマンチック街道でいちばん有名な街。

宗教戦争中の1631年、カトリック側に攻められ陥落したローテンブルグ。
「略奪して焼き払う」と宣言した怒れるティリー将軍に、ワイン一気飲みの賭けを提案して街を救った老市長ヌッシュ。

↑博物館にはその時のモノと伝わる3.75リットルのグラスが展示されている↑
その歴史劇を演じるのが「帝国都市祭」なのだ。
**
ローテンブルグは城壁に囲まれたまちだけれど、

時間があれば城壁を出てタウバー川のほとりまで降りてみたい。

崖の上に位置する城壁の中に教会や市庁舎の塔がぎっしり並んでいるのがわかる↑
ローテンブルグ側からタウバー川を見下ろすと↓

こんな風にみえる↑かなり高い位置にあるのがわかる。「ローテンブルグはゴルゴダの丘と同じ高さある」と、伝説的に言われ。キリストの血を収めた「聖血祭壇」があるヤーコプ教会を目指して巡礼者たちがやってきていた。
小さく見える石橋は↑15世紀ごろには今のカタチであったと言われ、近づいて見上げると相当に頑丈なものだとわかる。

巡礼者もこの橋を渡ったことだろう。

↓15世紀からあったと言われる秘密会議の家が左上に小さく見えている↓

ローテンブルグが最も栄えていた大航海時代前の15世紀はじめ。

周辺諸都市を束ねたハインリッヒ・トップラー市長はここで密談をしていたそうな(^^)

毀誉褒貶の激しかった時代。彼の最後は獄死だったのだけれど。


人口が増加して三度も城壁を建設したローテンブルグ

当時は城壁の外にも小さな集落がいくつもあった様子がうかがえる


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アウグスブルグのフッゲライ~ヤーコプ・フッガーのために祈る人々

2021-07-06 07:36:47 | ドイツ
2007,2012南ドイツの旅より
「毎日創立者(ヤーコプ・フッガー)のために祈ること」という入居条件がつけられている。

15世紀末から現代まで続く豪商フッガー家の建設した「フッゲライ」は、アウグスブルグの「まじめに働くけれど豊かになれないカトリック労働者」のための住宅。

その趣旨にそって1519年に決定された格安家賃は現代にも引き継がれ、年間0.88ユーロという驚きの安さ。
16世紀の建物だから天井は低いが、内部は現代風に使いやすく改築されている。

下の写真はミュージアムとして見学させている部屋↓16世紀の雰囲気がもっとも残されている部分↓
広さはそれぞれ三十平米程度。
比較的年齢の高い少人数世帯が多いそうだ。

ミュージアムになっていない一般住宅はそれぞれ住みやすく改築されている

ちょうど出てこられた住人の方。「ヤーコプ・フッガーのために毎日祈っていますか?」とは訊かなかった。

16世紀は共同の水場だっただろうけれど、今はもちろん各戸に水道がある。



↑呼び鈴↓

↑こちらはユリのカタチかしらん?
フッガー家の始祖ハンス・フッガーは十五世紀の布織職人だった。
エジプトから輸入した綿と地元ドイツの麻を合わせて布にする仕事だったのだが、やがて織るよりこれを売る方が儲かると気付く。
エジプトと取引をしているヴェネチアと商ルートを築き、仲間に織らせた布を販売して財をなしていった。
ハンスにはアンドレアスとヤーコプの二人の息子がいた。
兄アンドレアスの家系は鹿を紋章とし、弟ヤーコプは百合を紋章とした。

↑1519年、フッゲライの入口に掲げられた設立の碑文↑左には「鹿のフッガー」の紋章、右が「百合のフッガー」。
「アウクスブルクのフッガー家兄弟ウルリッヒ、ゲオルグ、ヤーコプは当地に生まれたことを最大の喜びとし、その巨額の財産を慈悲深い神に賜ったことに感謝し、我らの信仰と寛容を表すために『正直であるが貧しい市民』に106戸の住居と付帯建造物と設備を提供する」

碑文に出てくる三兄弟は前出の弟「百合のフッガー」ヤーコブの息子たち。
末息子ヤーコブが父の名前を継ぎ、このフッゲライを構想した人物。
「鹿のフッガー」の家系は次の代で衰亡したが、「百合のフッガー」が現代まで続いている。

↑フッガー家が営むビアホールのサイン↑


皇帝の選挙費用のカタに鉱山開発の権利を得て銀貨の鋳造をし、山の森林から林業をはじめ、金融だけでなく幅広い経済活動で成功していったフッガー家は同じ時代の宗教家マルティン・ルターから名指しで糾弾される。
「一代で王に等しいあれほど巨額の財産を築くことがどうして可能なのか?それは神の教えと法に背かないのか?
100グルデンにより一年で20グルデンを儲け、1グルデンで同額さへ稼ぐ方法が私には分からない。
しかもその方法は農作や牧畜によらない。神の喜び給うことは商業は控えることである。聖書に従い土地を耕し、アダムが神に命じられたように『額に汗して汝のパンを得よ』を実行することである。」

「金貸しは地獄へ落ちる」と言われてヤーコプ・フッガーは怖れただろうか?
怖れはしなくとも、市民からの敵意は避けなければならない。
当時の論客に金をはらって好意的な演説をしてもらったりもしたが、それはたいした効果がなかった。
1519年、五十才となり余命を意識しはじめたヤーコプは「フッゲライ」を構想するに至る。
真面目なカトリック労働者のために安価な住居を提供することで、自分のために毎日祈ってくれる人々を確保したのかもしれない。

「フッゲライ」の建設運営費用はフッガー家の財産の百分の一にも満たないものだったが、五百年後の現代からみるとフッガー家のための最良の投資になった。ヤーコプの死の百年後に宗教戦争が勃発。フッガー家が王侯貴族に貸した金はすべて不良債権化した。人口が半減した南ドイツではあらゆる経済活動が止まり民は困窮したが、「フッゲライ」は逆に必要度を増した。「フッゲライ」を運営する原資として所有する森林事業からの収入をあてていたことも幸いし現在まで存続している。アウグスブルグのフッガー家がどのような人々だったのかを現代に伝えるもっとも重要な事業となっている。

あのモーツァルトの曽祖父フランツ・モーツァルトも1681年からここに住んだ。



↑右奥に見えるのはフッゲライの住民のための教会↑
第二次大戦ではこの教会を含め半数ほどの家が被害を受けたが、すぐにほぼ元のとおりに再建された。

教会の壁にとりつけられた日時計には18世紀フッガー家のモットーが書かれている↑
〝Nütze die Zeit”⇒直訳なら「時間を使え」⇒つまり、「時間を無駄にするな」という意味。

フッゲライの門は午後十時には閉ざされ、それに遅れると門番になにがしかを払ってこっそり開けてもらうことになっていた。



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