旅倶楽部「こま通信」日記

これまで3500日以上世界を旅してきた小松が、より実り多い旅の実現と豊かな日常の為に主催する旅行クラブです。

首里城下の石畳を歩いて、琉球料理を食べに

2024-01-26 05:35:44 | 国内
琉球王国時代に首里城から整備された主要道路「真珠道(まだまみち)」

その一部が「島添坂」と書いて「シマシービラ」
現在のものは昭和の終わりになって整備しなおされたそうだが、
歩くべき道である。

国際通りからタクシーに乗り、
守礼門に着いたのは17:30↓

1987年にこの門の前で何度も団体写真を撮った。

行ってみたかった琉球料理の店は首里城石畳の下にある。
19時に予約がとれたのでその前に、三十五年ぶりの首里城を少し見学。

大変用戦争時の壕の発掘が行われている。

雲は低いが幸い雨は降っていない。

火災に遭った正殿は再建中↓

正殿前に立っていた二本の大龍柱が無事だったのは幸い。

迫力あるその姿を間近で見ることができる↑

↑この龍柱、二体が向かい合っていたのか、正面を向いていたのか、論争になっている。
※もっとも詳しく考察されていた文献にリンクします

海抜130mの首里城から那覇の夕景が見渡せる見張り台へ。

冒頭の「真珠道(まだまみち)」へ降りるころには夕暮れていった。

↑急な石畳の向こうに那覇の街の灯

「大アカギ」の表示があった

小道を歩いていくと暗闇から屹立する巨木

照らしても全体がよく見えなくてすみません

木肌が赤い?





こういった石畳は「昔のまま」ではない

保全と復元が丹念に実践された結果である。
ヨーロッパの石畳などはアスファルトだったものをわざわざ敷き替えた例も多いのだ。

やっとお店の看板が見えた。

小規模な家庭料理の店。
予約が取れて幸い。

※料理についてはこちらに書きました
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エメラルドグリーンの入江~ゴドリー岬からリトルトン港へ、夕食はアイリッシュ・パブでギネス・ビールを

2024-01-10 14:04:43 | ニュージーランド
ゴドリー岬からリトルトン港へのびる入江はエメラルドグリーンをしている※動画にリンクします
海上に黒いシミのように見えるのは海藻ではなく雲の影。

こわごわ見つめる羊たち(^^

クライストチャーチから近いゴドリー岬は先端が放牧地になっている↓

↑蹄の動物たちが嫌う仕掛け道路とフェンスで区切られているエリアに入っていく。

しばらくすると↑道路わきからひょっこり顔をあげた↑注意深くこちらを見ている↑

↑と、ぴったり寄り添う子羊がいた↑

↑サムナービーチを見下ろす高台から↑ジグザク道をやってきたゴドリー岬↓

↑ここには第二次世界大戦時代には日本の侵攻に備えて砲台が建設されていた↓

見学ルートも用意されている。

幸いこの美しい入江が戦場になることはなかった。

岬の先端をまわり冒頭写真のエメラルドグリーンの入江にはいってゆく↓
↓ニュージーランド自体が火山活動でできた島で、カルデラのつくりだした入江が良港となっている。

↑紫色の花はイギリス人が持ち込んだヘザー↑「ヒースの丘」というのはヘザーでできている。

リトルトン港が見えてきた↑
捕鯨基地があったところに1850年に入植団の船が入り、クライストチャーチ建設のためのベースになった。

斜面に区画整理されたまっすぐな道が交差している。

高台に↑「タイム・ボール」が見えた↑
イギリスの古い街によくある↑時計が高価だった時代の装置。
正午になると球が下に降りる※グリニッジ天文台にもあった※訪問時のブログにリンクします

↑街の中心にマオリの彫刻↑坂が急なのがわかる。
2011年2月の大地震でリトルトンは震源地にいちばん近かった。
古い家々は強度を保てないとして取り壊されたところも多い。
街の中心部が歯の抜けたように空き地になっているのがみられるのはその名残。

↑午後二時をまわっているので↑人気のカフェもテラスに座ることができた↓

↑NZ独特の「フラット・ホワイト」を注文


***


リトルトンから丘を越えてクライストチャーチへ向かう。

エメラルドグリーンの入江がきれいに見渡せる場所でフォトストップ↑左奥にリトルトン港が見える

↑黄色いエニシダがきれいだが、これも外来植物

峠にあるクラシックな建物は↓

↑「サイン・オブ・タカヘ」↓

1908年から建築がはじまり1948年にやっと完成した。
現在もクライストチャーチ市民に人気のレストラン、パーティー会場。

NZ独特の植物もたくさん植えられている庭↑これもそうかとおもったら↓アプリで調べると南アフリカ原産だった。

カンタベリー平原とクライストチャーチのダウンタウンが一望できる。


17時過ぎに中心部のホテルにもどる。

↑立ち入りの禁止された空虚な建物が中心部にもまだまだみられる↑
クライストチャーチ中心部もリトルトンと同じように、2011年の大地震の後強度に心配のあるビルがたくさん取り壊された。


今日は近くのアイリッシュ・パブで夕食にした。

↑アイルランドのギネス・ビールを思い出させる独特のクリーミーな泡(^^♪
↑ギネスは18世紀後半には創業していたから、NZに入植した人々も故郷で飲んでいたことだろう。
「あぁ~あのギネスが飲みたいなぁ」ときっと思ったことだろう。
※2019年のアイルランド旅でギネス・ビールのおいしさをしったブログにリンクします



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サムナーを見下ろす高台より

2024-01-07 16:09:00 | ニュージーランド
ニューブライトンビーチから長く伸びた砂州が遠景に見える↓

↑すぐ下の街はサムナー↑小松の顔のすぐ左あたりがサムナー・ビーチ↑
ニューブライトンから砂州にかけては船がつけられそうな場所は、ない。
google地図を見ていると砂州から切れ込んだ湾は良港に見えるが↓
実際に見てみると浅くて大きな船は入れない。

↑クライストチャーチに入植する人々が着いたのは↑地図のいちばん下に見えるLytteltonリトルトン↑
こちらに開いた入江はもともと火口カルデラだったから深くて大きな船も入れる↑
**
ニュー・ブライトンを出て↓冒頭の写真を撮った高台に上がる前に訪れたサムナービーチ

マオリの言葉では「マトゥクタコタコ」↓犬を放しても良いビーチ↓※シドニー近くのビーチでかつて「犬が海に入ると匂いでサメが近づいてくるので禁止になっています」ときいたことがある

外洋に面しているからけっこう大きな波がくる

↑旗と旗の間だけは監視員が見ていてくれる↑

↑「ケーブ・ロック」の上には

19世紀に船に向かって信号旗を掲揚していた小屋↑

「ケープ・ロック」の逆サイドまであるいた。

レストハウスに↑はじめてみる電気バイクが止めてあった↓

↑ニュージーランドのメーカーだった※帰国後調べてこちらに載せました

↑海岸の松林に沿って↓サムナーから出征した兵士が命を落とした戦場の名がならんでいた。

見下ろす南洋杉↓自然にこんな整った形になる↓頂上が十字架にみえるので宣教師たちが喜んだ。


↓サムナービーチを見下ろす高台の斜面は高級住宅地になっている↓

↑大型バスは入れない住宅街の道を抜けたところで車を止め、
冒頭の写真を撮ることができたのだった。


リトルトンへ向かいます。
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オークランド・ドメインの「冬の庭」、帰国便搭乗

2024-01-04 15:24:07 | ニュージーランド
***
ドメインの一角にウィンターガーデンがある。

↑ここの温室は必見

オークランド・ドメインは1913年12月1日から1914年4月18日まで開催された当時流行の産業博覧会の会場だった。工業、農業の他に鉱業が重要な展示になっているのが当時のNZらしい。期間中に87万人が訪れたとされる。オークランドは当時10万人ほどの人口だった。

すぐちかくにスコリア(=火山噴出物からとれる黒い軽石のような砂利)を採掘する場所があったが、1931年にそこはNZ独特の「シダ園」になっていた。100種以上のシダが植えられていたが後に荒廃。1994年に復元・再オープンされた。
二つの温室は1921年と1929年に完成した。※現地の解説ボードより

心地よい陽光



****

ダウンタウン中心にあるホテルにチェックイン

最後の夕食をどこにするかいろいろ悩んだが…
ホテルのダイニングに決定(^^♪

パンを食べてすぐ、「ここでよかった」と思った。

アスパラのフリット↑アスパラの焼いたの↓



赤身のおいしさたっぷりのステーキ
今回、NZで何度肉を食べたことか。
脂がのってやわらかく、、、というのではbなく、肉のおいしさがぎゅっと詰まっていた。


***
翌朝、帰国便に乗るためオークランド空港へ向かう

荷物のチェックインはどこもセルフになったこの頃
出国ゲートには中国語併記。

免税店は(安くはないけど)充実している。

オールブラックスグッズの専門店は出向前にしかない。出国後は↑このアディダスの中にあるだけ。

↑「グラスフェッド(草だけを食べた)牛の牛乳からつくったバター↑NZは基本的にどこでも「グラスフェッド」

↑「アオラキ」とはマウント・クックのこと↑あのエリアで養殖されているキングサーモンのサーモン丼、また食べたいです(^^♪※その日のブログにリンクします

↑NZの「ウィッタカー・チョコレート」

↑このチョコレート・クッキーもよくみかけた。

キウィのジャムや

ワインももちろんおいしい。

復路のフライトはデイ・ラン。
太平洋を眺めながら10時間ほどで成田に到着。
もうすぐ羽田線も飛びはじめる。
今度はNZ北島だけの旅を実現してみたい。
日本のツアーのほとんどが南島中心だが、歴史的に北島の方が温暖で人口が多く、観光シーズンも長い。


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11月初夏のオークランド~マオリ戦士の肖像

2024-01-03 07:26:48 | ニュージーランド
咲き誇るバラの背景に南洋杉。NZ南島のダニーデンからやってくると、北海道から九州に移動したぐらいの差を感じる。

ここパーネル・ローズ・ガーデン(=Dove-Myer Robinson Park)にはオークランドでいちばん古いマヌカの木、いちばん大きなポフツカワの木があるのだそうだ。

同じNZでも北島だけをめぐる旅を企画してみたい。
**
プケカワ=オークランド・ドメインは1843年に整備された、わかりやすく言うなら「市民公園」。

ここも火口丘でマオリ族の砦があった場所。今はギリシャ神話のような「オークランド博物館」がある。1929年に完成し↓1950年代に(これらの写真では見えない)南側の半球部分が増築された。

↑「南半球で最も美しいギリシャ・ローマ建築」という評もあるが、マオリの人々の目からはどのように映っただろう。
↑オークランド博物館は「オークランド・ウォー・メモリアル」でもある↓

通常の戦争記念碑ならローリエの冠(栄光を著す)あたりが描かれていそうなところに、代わりに↑大きなシダ(NZのシンボル)の葉が刻まれてている。となりにマオリ族の謹言「as one fern frond dies,one is born to take it place(ひとつのシダが死ねば、その代わりに一枚が生まれる)」が刻まれていた。

↑最上階にはNZがこれまでかかわってきた戦争で命をおとしてきた人々の名前を刻んだ回廊がある↓

最後の壁は空白になっており

「これらのパネルはけっしてうめられてはならない」↑

NZが宗主国イギリスのために大きな犠牲をはらった第一次大戦についての解説は詳しい↓国威発揚のためのこのポスター↓一部意訳してみる

↑★イギリスはなぜ戦うのか
・名誉を守るため
ドイツは条約を破りベルギーを侵略した。ベルギーが求める助けを拒めば我々は名誉を失う
・ヨーロッパの自由を守るため
ドイツが勝てば、自由な言論・公平な裁定・公正な運営は百年失われる。
ベルギー、フランス、そしてイギリス、ロシアも侵略しようとしている。
妻子のために立ち上がる時だ。
さもなくば、ドイツの軍靴に蹂躙されることになる。

1907年に自治領にはなっていたが、当時のNZは英国の一部。
百万人にも満たなかったNZから十万人の兵士を派遣した。

第二次世界大戦では、NZはほとんど無傷だった。
↓イギリスを襲ったドイツのV1ロケットが展示されている↓

最も近い敵国だった日本との交戦はあった。

↑ブーゲンビル島(現パプアニューギニア)でNZ軍が入手したゼロ戦↑
この飛行機を最後に操縦したシバヤマ・セキゼン准将についての記述もあった。
1943年9月にラバウル基地(ニューブリテン島=ブーゲンビルの西隣り)に配属され通算百五十回に及ぶ空戦を生き残った。
カミカゼ特攻を命じられたこのゼロ戦の整備をできるだけ遅らせて、終戦をむかえることができた。
※現地案内版より要約

日本の降伏についての展示もあったが、日本からやってきたある国会議員が展示に不満を漏らすと、玉音放送についての展示はなくなったのだそうだ※ガイドさんより伝聞

世界大戦の展示よりも、
「マオリ戦争」についての詳しい解説に驚かされた

1840年のワイタンギ条約のあと、イギリスに土地を売り渡す部族と反対する部族との内紛がはじまり、イギリスが「助ける」かたちで参戦し、北島各地で籠城するマオリの各部族を「掃討」していった。

↑復元してあったのはルアペカペカの砦↑1845年12月から翌年1月にかけて、600人以上のマオリ族が籠城した。
「蝙蝠の巣」と呼ばれ、地下トンネルを擁する砦はイギリス軍の砲撃にも簡単には陥落しなかった。
このマオリの地下トンネルの知識は第一次大戦ガリポリ戦の塹壕に役立ったという記述もあった。
マオリとイギリスの紛争は19世紀後半をつうじて主に北島の各所で起こり続けた。

マオリ文化のルーツを伝える展示も充実している。

伝説の「ハワイキ」と呼ばれる島から海をわたってきたのが800年ほど前だったとされる。
チリのイースター島までを含むポリネシア系の文化は海でつながっている。

村の建物を移築している↑集会場を兼ねた大事な場所「マラエ」↓

広々とした内部も精緻な木彫でおおわれている。

↑目の部分は光る貝
全体のデザインにシダ植物の形状が感じられる。
渦巻き模様はシダの新芽KORU。

↑こちらは高床式の穀物倉庫↓

描かれた男女の顔は↓

入れ墨装飾

「1863年ランギリリの戦いでイギリス軍を撃退した後、話し合い要請のつもりで砦に旗を揚げるとイギリス軍はそれを降伏のサインだと認識した。話し合いの席で183人のマオリ戦士が捕縛された」※肖像の解説文より

「タウポ地域の族長であったパエラタは、いかにして砦を二日間守り通したのかを語った」※肖像の解説文より
↑彼が手に持っているのはマオリの武器↓

木彫にも表されている↑
↑これら族長たちの肖像が描かれたのは「マオリ戦争」の四半世紀後。
すべてがイギリスによって奪われた後、どんな思いでこの肖像のモデルになっていたのだろう。

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