まるで誰かが迎えてくれているような虹だった。
8月5日、ウランバートルの大渋滞を抜けて、「さくら記念館」のある市街地北の丘に向かう。
このあたりは昔からある広大な墓地。
近年ウランバートルは地方から人が流入し、板塀とゲルの家々が周辺地域にあふれている。
「四割の人がこういった貧しい地区に住んでいます」
ドライバーもガイドさんもはじめての場所。
路地で迷っていたら、迎えにきてくださった。
なんとかバスを止め、先導されて丘の頂上まで登る。
左側に小さな水溜まり↑「ノゴーンノール公園」
ウルジートグトフさんがやってきた2009年↓ここはゴミ溜めだった
彼がひとりで片付けはじめたのである。
ウルジートグトフさんは自分の住んでいる土地の歴史を知って、公園と記念館をつくりはじめた。
ネット記事で「さくら記念館」のことを知った時、ずっとこの土地に住んできた人かと思ったが、今日お話ししてみると地方の出身だった。
★経歴をこちらのページに書きました
出稼ぎしてやっと手に入れた家を抵当にいれて、縁もゆかりもない日本人抑留者のための記念館をつくっている…
↑ゴミ溜めは2012年には小さな遊園地になり↑地域の子供たちが集まる場になった。
↑記念館の方は2022年にようやくゲルの展示館でスタートした↑モンゴルと日本の国交正常化50周年の年だった。
オープンには日本大使も臨席された※大使館のHPにリンクします
※モンゴル・ナショナル・ニュースのページにリンクします
ゲルの中には、日本人抑留者が建設に携わった32の建物の写真が掲げてる。
国立公文書館に通って調べ上げた。
取り壊されるのがわかると、現場へ行って建物の一部をもらいうけている。
どんな使命感が彼を動かしているのだろう。
ソ連によってシベリアに抑留された日本人は57万5千人とされる
そのうち1万5千人がモンゴルに送られ、1500人以上の人が亡くなったとれている。
※厚生労働省のHPにリンクします
↑遠くにウランバートルのビル街が見える。
陽はあるがもう20時をすぎた。
↑東へ目を転じれば、渋滞でなければ訪れようとおもっていた日本人墓地が見える↑
持参した日本酒をモンゴル式に捧げ、献杯した。
ゲルの小さな記念館をきちんとした建物の記念館にしたいというウルジートグトフさんの願いが叶うのかはわからない。
だが、それが出来なくても、一般のモンゴルの人が我々日本人の過去に心を寄せてくださっていることに感謝したい。
モンゴル観光の場所からは遠く、バスも入ってきにくい場所だが、
こういった場所があることを知ってほしかった。
降りていく途中↑品の良い民族衣装の女性がにこやかに手を振ってくれている。
ウルジートグトフさんのお母様だった。
地方から出てきて、韓国に出稼ぎに行き、けっしてお金にならない仕事を続ける息子を見守っておられる。
**
8月27日、二度目の訪問。
この日は渋滞にも遭わず時間があったので二つ目の記念ゲルも見ることができた。
ウルジーさんが足で集めた資料が日本語の雑誌や新聞にもとりあげられている。
「日本人がうたっていた歌だそうです」と渡された紙に
「ふるさと」の歌詞が書かれていた。
異国での死を意識した時、この歌詞がどんなにか切実に感じられたことだろう。
遠望する日本人墓地に向かって歌った。
8月5日、ウランバートルの大渋滞を抜けて、「さくら記念館」のある市街地北の丘に向かう。
このあたりは昔からある広大な墓地。
近年ウランバートルは地方から人が流入し、板塀とゲルの家々が周辺地域にあふれている。
「四割の人がこういった貧しい地区に住んでいます」
ドライバーもガイドさんもはじめての場所。
路地で迷っていたら、迎えにきてくださった。
なんとかバスを止め、先導されて丘の頂上まで登る。
左側に小さな水溜まり↑「ノゴーンノール公園」
ウルジートグトフさんがやってきた2009年↓ここはゴミ溜めだった
彼がひとりで片付けはじめたのである。
ウルジートグトフさんは自分の住んでいる土地の歴史を知って、公園と記念館をつくりはじめた。
ネット記事で「さくら記念館」のことを知った時、ずっとこの土地に住んできた人かと思ったが、今日お話ししてみると地方の出身だった。
★経歴をこちらのページに書きました
出稼ぎしてやっと手に入れた家を抵当にいれて、縁もゆかりもない日本人抑留者のための記念館をつくっている…
↑ゴミ溜めは2012年には小さな遊園地になり↑地域の子供たちが集まる場になった。
↑記念館の方は2022年にようやくゲルの展示館でスタートした↑モンゴルと日本の国交正常化50周年の年だった。
オープンには日本大使も臨席された※大使館のHPにリンクします
※モンゴル・ナショナル・ニュースのページにリンクします
ゲルの中には、日本人抑留者が建設に携わった32の建物の写真が掲げてる。
国立公文書館に通って調べ上げた。
取り壊されるのがわかると、現場へ行って建物の一部をもらいうけている。
どんな使命感が彼を動かしているのだろう。
ソ連によってシベリアに抑留された日本人は57万5千人とされる
そのうち1万5千人がモンゴルに送られ、1500人以上の人が亡くなったとれている。
※厚生労働省のHPにリンクします
↑遠くにウランバートルのビル街が見える。
陽はあるがもう20時をすぎた。
↑東へ目を転じれば、渋滞でなければ訪れようとおもっていた日本人墓地が見える↑
持参した日本酒をモンゴル式に捧げ、献杯した。
ゲルの小さな記念館をきちんとした建物の記念館にしたいというウルジートグトフさんの願いが叶うのかはわからない。
だが、それが出来なくても、一般のモンゴルの人が我々日本人の過去に心を寄せてくださっていることに感謝したい。
モンゴル観光の場所からは遠く、バスも入ってきにくい場所だが、
こういった場所があることを知ってほしかった。
降りていく途中↑品の良い民族衣装の女性がにこやかに手を振ってくれている。
ウルジートグトフさんのお母様だった。
地方から出てきて、韓国に出稼ぎに行き、けっしてお金にならない仕事を続ける息子を見守っておられる。
**
8月27日、二度目の訪問。
この日は渋滞にも遭わず時間があったので二つ目の記念ゲルも見ることができた。
ウルジーさんが足で集めた資料が日本語の雑誌や新聞にもとりあげられている。
「日本人がうたっていた歌だそうです」と渡された紙に
「ふるさと」の歌詞が書かれていた。
異国での死を意識した時、この歌詞がどんなにか切実に感じられたことだろう。
遠望する日本人墓地に向かって歌った。