旅倶楽部「こま通信」日記

これまで3500日以上世界を旅してきた小松が、より実り多い旅の実現と豊かな日常の為に主催する旅行クラブです。

竹生島に残る秀吉の大阪城

2024-11-05 12:09:46 | 国内
↑写真左上に映っている「観音堂」の入り口が秀吉の大阪城から移築された「唐門」だったと確認されたのは2006年のこと。

色鮮やかに塗りなおされた↑
↓2024年10月、この内部に安置されている千手観音像が特別公開された↓

二メートルもある金色の千手観音像も印象的だったが、それが安置されている「観音堂」の空間そのものに秀吉の生きた時代を感じた。(写真は撮らせてもらえなかったが)唐門のような極彩色の復元ではなく、漆の古びた様をうまく復元していた。「秀吉もここを見たかもしれない」と、思わせてくれた(※当然移築前)。

↑「観音堂」は突き当り
↑右側の廊下は朝鮮出兵の際の御座船を逆さにして使ったと伝承されている。
※竹生島宝厳寺のHPに解説されています

↑これが「舟廊下」↓下は「観音堂」から見たところ↓


「大阪の陣」で地上から抹殺された秀吉の大阪城の遺構は、1603年に移築していたから現代まで残った。

「舟廊下」でつながった先にある通称「竹生島神社」の正式名称は「都久夫須麻神社(つくぶすまじんじゃ)」
これが「ちくぶしま」の由来と考えられている。

この本殿内部もまた秀吉ゆかりの伏見桃山城勅使門を移築したもの。
「豊臣秀吉が寄進しました伏見桃山城の勅使殿を移転したもので、国宝」※竹生島神社のHPにリンクします

↑外側の木彫だけでも一見の価値がある↑

↑公開される機会がきたたらぜひ訪れたい。
竹生島には秀吉ゆかりの建物がたくさん移築されている。

秀頼か北政所かに命じられて実際に移築に携わった片桐勝元が記念に植樹したモチの木↓

↓樹高は高くないが四百年を感じさせる。


竹生島に寄進する人は中世から現代まで途切れない↓

↑こちらの弁天堂は昭和17年に瀧富太郎の莫大な寄進により完成した。
本尊の秘仏弁財天はもとは現在の「竹生島神社」社殿に置かれていたが明治の廃仏毀釈によってお堂から出されてしまっていた。そのためのお堂を昭和12年に建てはじめたが日中戦争でストップ。そこに瀧富太郎の寄進が入った。↓経緯が記された石碑⇒

↓こちらの三重塔は平成12年に、三百五十年ぶりに再建された。



「竹生島神社」本殿から振り返ると↓

拝殿が湖を背景にしている↑
拝殿から鳥居に向かって「かわらけ投げ」!
フリスビーみたいに投げるとよく飛ぶのだそうな。なるほど(^^♪

港に降りて15:55発の今津港行きを待つ。抹茶のソフトクリームがいたくおいしかったのは素晴らしい秋晴れのせいかもしれないお天気だけは天からの賜物







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16世紀の計画都市ヴァレッタ

2024-11-01 10:34:22 | マルタ
2006年4月マルタの旅より
マンハッタンのようにまっすぐな道。

それは計画してつくられた都市だから。
ドームは「カーマライト教会(カルメリータ会のバジリカ)」。
※ヴァレッタ建設時16世紀後半に建設されたが1942年第二次大戦で爆撃破壊、1981年に再建された


起伏のある半島にまっすぐな道を通したので、サンフランシスコのような急坂になっているところもある。

1980年に世界遺産にも登録された。
街の名前は都市を計画したフランス人ジャン・ド・ラ・ヴァレット名前からつけられた(街は女性名詞なので語尾変化している)。

二度目に訪れたのは街が建設されて440年記念の2006年↑
↑町の入り口門に記念の幕↑
**
前夜、アムステルダムからの直行便で到着した。

日本から当日乗り継ぎで到着できる唯一の便だった。
マルタ航空機内で出されたマルタ独特の炭酸飲料「キニー」※解説ページにリンクします



翌朝、城壁で囲まれているヴァレッタに気付く

国章になっている先割れ十字は淡路島の半分ほどしかない島を独立国にした騎士団の紋章。

騎士団のルーツは11世紀にエルサレムで設立されたキリスト教徒の巡礼者を看護する病院。
それを守るために結成された「聖ヨハネ騎士団」である。
1291年、聖地がイスラム教徒によって陥落し、
1309年、ロードス島に本拠を移した※小松が訪れた時のブログにリンクします
1523年、ロードス島もオスマントルコ帝国の猛攻をうけ、
騎士団はロードス・シティを明け渡した。
1530年、神聖ローマ皇帝カール五世からマルタ島を領土に賜る。
賃料は年に鷹一羽。

騎士たちはオスマントルコがこの島にもやってくることを予期していた。
果たして、1565年オスマントルコはマルタ島を包囲。
だが、すでに要塞化していた街は猛攻もちこたえた。

↑当時の「Great Siege(大包囲)」の遺物はたくさん展示されている↑
↑丸いのは鉄砲の鉛球とそれを形成する道具↑

↑当時の騎士団長ヴァレットの甲冑の本物↑わりに小柄な人だったようだ。
包囲を持ちこたえた翌年、ヴァレットは新しい要塞都市の建設をはじめた。
それが現在、彼の名前をとってヴァレッタと名付けられた街である。

ヴァレッタに建設された「聖ヨハネ大聖堂」の床には騎士たちの墓石がずらりと並んでいる↑
ヴァレットの墓もここに移された。

1608年、「大包囲」で功績をあげて騎士団長になったアフロ・ド・ヴィニャンクルの庇護を求め、マルタにやってきた画家カラヴァッジョが「聖ヨハネの斬首」を描いた。

↑間近に見たかったが遠くて暗い…

カラヴァッジョの絵はもともと暗い画面にスポットライトを当てたような構成なのだが。

↑聖ヨハネの首から流れた血で「ミェランジェロ・メリージ」(カラヴァッジョの本名)とサインされている


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