前回のつづき。
長いながい昏睡状態の末、祖母は旅立った。1月とは思えない陽気の前の晩のことだった。
ここからはなしは一月以上前の記憶に遡る。
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葬儀は、両親と親族のみで行う、家族葬ということになった。通夜も告別式も僧侶もなく、家族だけで見送ることになった。
そして、祖母を見送る日もまた、めずらしいほどの陽気だった。
何年かぶり親戚の伯父、伯母、従兄弟と会う。とくに従兄弟の中で最年長のTさんに会えたのが、何より嬉しかった。小さい頃「たーちゃん」と呼んでいたTさんは、学生時代はラグビーにアメフト、社会人になってからは主に海外で活躍された。8つ年上のまさに頼れる従兄だ。広島から、奥様と今年中学生になる娘さんと3人で参列されたのだ。
ぼくには従兄弟が7人いるのだが、今回祖母の孫として見送ったのは自分と弟、そしてTさんの3人だけだった。
市内の葬儀センターにて、親戚一同13名だけで、祖母を見送る。通夜、告別式はないかわりに、最後の別れをする告別場があり、そこで顔や胸に切り花を添えていく。穏やかな祖母の顔に。
やがて棺が閉じられ、いよいよ本当の最後の別れのときが近づく。遺族代表3名(両親と長男の自分)だけ残り、すぐ隣の火葬場へ、棺に続いてゆく。
ここでは特に念入りに、手続きを確認をする。火葬許可証の確認、火葬場の番号の確認。ひとつひとつを両親と自分が確認する。ひとつでも手違いがあってはならないからだ。
すべてを確認したのち、棺はいよいよ炉の中へ納められた。シャッターがゆっくり閉じていくのを正視できなかった。
一区切り着いて、収骨までの間、休憩所で待機。乾きもの食べたり、記念写真を撮ったりする。親戚の伯母と話すのも久しぶりだが、やはり従兄弟で長兄のTさん一家と会話できたのが嬉しかった。
最初は人見知りしていた彼のお嬢さんも、少しずつ話し出してくれた。Tさんが、一家の家系図を書き、大婆ちゃん(祖母のこと)からはじまって、この席にいるのが○○叔母さん、あちらが△△叔父さん、といった感じで、ぼくも彼女に「叔父さん」なんて呼ばれて少し照れくさくなった。けど彼女にとっては本当のことだからね。
1時間後、また現実に引き戻される。収骨の時間になった。
火葬場から焼け出されたばかりの遺骨を確認するが、両親、そしてぼく、3人とも言葉がでなかった。あまりに変わり果ててしまった姿に、呆気にとられた。骨格はかろうじて確認できたが、やはり骨は老衰からか、スカスカになっていた。それを皆で拾い上げていく。
2時間ほどで、葬式は終わった。翌日には早速、墓地にいれることになっていたが、この日は実家でお骨を安置することになった。親戚達とは、ここでお別れ。
車での帰路、助手席の自分が祖母のお骨を抱えて実家へつれていく。途中、父が車のルートを違う方へ向けた。向かった先は、ぼくや弟が幼い頃住んでいた住宅地。自分が幼稚園のころの話を懐かしく語る母親。今の自分よりも若い頃のことだった。ちなみに、弟はまだ乳飲み子、それがもうすぐ父親になるのだから、いかに遠い時間を経てきたのだろう。
実家に仮の祭壇を飾り、お骨を安置したところで、ようやく葬儀は終わった。
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一月前の日記からちょっと加筆しました。
親しかった人と別れるのは、やはり辛い。しかし、あとで聞くと、祖母の悲報を報じたところ、逆に「立派な人生でした」と、会う人会う人みな、そういってくれたという。それがひとつの救いだったと、残された我々は思った。
果たしてそういわれるような人生を、今後送れるだろうか?答えは臨終の時にならないと分からないのだが・・・。
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