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修学旅行記 その8~京都市内編

2018-10-06 11:28:53 | 旅行記
 最初は簡単にできるだろうと始めたこの修学旅行シリーズですが、やってみると意外と大変。アルバムから絵や写真を取り込むだけでなく、補足の解説書くのに勉強し直したりすることもあるので、気づくと普段の倍以上の時間かかってる・・・!

その成果を今回もご覧ください(^^;
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『京都市内編
修学旅行もいよいよ大づめ。最後の二条城、清水寺をしっかり見学したいと思います。』

この日のコースはごらんのとおり。

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『京都市内編 PART1 二条城』

『<解説>
 徳川家康が上洛(京都入りすること)の際の宿舎として造営したもの。しかし天守閣は落雷により焼失。現在まで再建はない。
 1867年、15代将軍徳川慶喜の大政奉還がここで行われ、武家政治700年の歴史が終わったことで有名』

天守閣焼失後、本丸御殿が徳川慶喜の住居として建築されるも、明治14年に解体。現在の本丸御殿は、京都御苑今出川御門内にあった旧桂宮邸の御殿を,明治26年から27年にかけて本丸内に移築した。

絵葉書より。

『現在も史跡として残っている』
1994年に、ユネスコ世界遺産に登録されました。


クラス全員の集合写真。バックは二の丸御殿。
中央に座るのが担任のS先生。あだ名は「テリーマン」。だって、風貌があまりにもそっくりで、他のたとえが思いつかない(^^;社会科の担当で、2年生からお世話になりました。中学まで社会科が得意だったのはこの先生のおかげかもしれない。
ちなみに、先生の右2人目、背中を丸くしているのが自分です。

『<ひとくち感想 Vol.9>
 二の丸の見学で、大政奉還、その他再現、また当時のまま残されたふすまなど、徳川文化を物語るようだ』

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『京都市内編 PART2 清水寺』

『<解説>
 桓武天皇のころ、蝦夷征伐で功績のあった坂上田村麻呂に、天皇が長岡京の古い紫宸殿(ししんでん)を賜って本堂とし、北観音寺と名づけたのが後に清水寺となった。
平安末期に、延暦寺との争いで度々戦火を受けた。
現在の建物は、1633年、徳川家光が古いしきたりに則って再建したものである。』

 紫宸殿(ししんでん)は、天皇の内裏、私邸であったが、平安時代中期以降は、即位の礼など重要行事を行う場としても使われるようになった。
 本文では上のように書いているが、奈良の修行僧、賢心(けんしん)が、夢のお告げにより音羽山へ向かい清らかな湧き水を出る滝を見つける。そこで滝行を行う行叡(ぎょうえい)から霊木を託される。賢心は、その霊木から千手観音を刻み、行叡の庵に安置した。2年後、坂上田村麻呂は、妻の病気平癒を願、薬であるシカの生き血を取るため音羽山へ鹿狩りをした。しかしそこで出会った賢心に、殺生はよくないと説かれ、観音菩薩の教えに感銘した田村麻呂が後日、千手観音像をご本尊として寺院を建立する・・・というのが清水寺の始まりとのこと(また、勉強し直しかな?)。

『入口の門:ここまで登るのに、細い土産店の坂道を登らなくてはならない』
左が仁王門。右奥が西門と三重塔。

『音羽の滝:細い3本の滝は、願いがかなうと言われ、水を飲む人もいれば、白衣の行者が合掌し、水に打たれることもある』
3本の滝は、1本の同じ水源らしい・・・。

縁結びの神をまつる、地主神社。

『<ひとくち感想 Vol.10>
清水寺は、このころ工事中で少し足場が悪かったが、清水の舞台から見た京都の街が小さく見えた。いよいよしめくくり。最後の見学だ。』


清水の舞台は、当時復元工事中で、白い幕が張られていたように思う。舞台には立てたようだが、観光客や他の修学旅行生が多くて写真撮る余裕もなかったかと思う。


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もう少し書きたかったが、このあと私用で外出のため時間切れ。
続きは次回(たぶん最終回)へ。
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