今日も暑い々々一日でした。そして、63年前の8月6日の朝8時15分も暑い朝でした。
小学校(当時国民学校と言いました)3年生のわたしは、学校のグランドのポプラの木影で朝礼を待っていました。
その日は登校日だったのでしょう。 なにかがピカッと光ったのをはっきり覚えています。
次いでものすごい爆発音に耳を奪われ、教員会議中の先生たちもびっくり、グランドに飛び出てきます。
北東にあたる山間から真っ黒い煙が「入道雲」のようにたち登りました。
これが、広島に原子爆弾が投下され、爆発した瞬間でありました。
わたしの郷里平生から広島市中心までは、直線距離で60キロ、うち海上部分が40キロです。
音・光が伝わるのに、中間障害のない地形なので、光と音が良く伝わったのだと思います。
「敵、広島に新型爆弾投下」翌日の新聞一面の見出しです(と言っても表・裏たった2ページだけの新聞でした)。
父の長姉が広島に嫁いでいて、その伯母と夫の伯父が原爆で亡くなったのを知ったのは8月14日のことでした。
その日の昼過ぎに、小学6年の従兄がたった一人で、わたしのうちに、骨壷持参でやってきます。
聞けば「お母さんは死んだ。お父さんは分からない。」それだけでした(ですから伯父の遺骨は今もありません)。
伯母の家は、原爆が投下された・・とされる島病院からたった50メートルほどの距離です。ひとたまりもありません。
8時15分に、島病院の上空580メートル点で爆発した原爆は、熱の渦紋を描きながら、広島を焼き尽くしました。
爆心地の地表温度は(爆発時)4000℃~5000℃に達したと言います。
かくして、疎開した老母(当時68才?)と19才の長女をかしらに小学6年の次男まで4人が残されました。
4人の子は、焼け跡から、母親のものと思われる歯形をひとつ見つけ出して、彼らの叔母宅に身を寄せます。
今は広島市佐伯区五日市に、父の次姉が開業医に嫁いでいたのでした。
皆で相談したのでしょう、お骨はとりあえず生家である私の家の仏壇に安置しよう、あとのことは疎開中の祖母と相談しよう、
・・そんなことだったのでしょう。
お骨をもってきたのは末っ子の次男です。長男は中学2年でしたが、学徒動員先で閃光を浴びて右半身やけどを受け、
落ち着き先の叔母の医院で治療中でした。
このとき亡くなった伯母は41才、伯父は49才でした。
今考えると、なんと若いうちに命を奪われたのだろう・・・そんな感慨にふけります。
数年前のこと(それまで幾度も訪れました)原爆ドームを訪ねたとき、被爆した家々の名がプレートに刻んでありました。
もしや・・と思って読み進むと「笠井伊兵衛商店」とはっきりと刻まれていて、思わず涙がこぼれました。
代々続いた傘問屋でしたが、被爆後祖母を中心に姉2人弟2人の5人が家を再興します。
家業の傘問屋から、ガソリンスタンドを経て、今は広島市民球場(もうすぐ閉鎖されますが)の電車通りを隔てた真前で、
そこそこのビル1棟をもって、安定した生活を送っています(資産を残した先祖のおかげです)。
半身ケロイドの従兄は十数年前なくなりましたが、残る3人は健在です。
「笠井伊兵衛商店」はネットで検索したら、出て来ました。当時お骨を持って来た従兄の写真も出ていました。
いま、思い出しても切ない限りであります。
原爆がもとでの犠牲者数は今日まで25万3千余人にのぼる・・・と聞いております。
ただただ、合掌あるのみです。
・・・合掌・・・
小学校(当時国民学校と言いました)3年生のわたしは、学校のグランドのポプラの木影で朝礼を待っていました。
その日は登校日だったのでしょう。 なにかがピカッと光ったのをはっきり覚えています。
次いでものすごい爆発音に耳を奪われ、教員会議中の先生たちもびっくり、グランドに飛び出てきます。
北東にあたる山間から真っ黒い煙が「入道雲」のようにたち登りました。
これが、広島に原子爆弾が投下され、爆発した瞬間でありました。
わたしの郷里平生から広島市中心までは、直線距離で60キロ、うち海上部分が40キロです。
音・光が伝わるのに、中間障害のない地形なので、光と音が良く伝わったのだと思います。
「敵、広島に新型爆弾投下」翌日の新聞一面の見出しです(と言っても表・裏たった2ページだけの新聞でした)。
父の長姉が広島に嫁いでいて、その伯母と夫の伯父が原爆で亡くなったのを知ったのは8月14日のことでした。
その日の昼過ぎに、小学6年の従兄がたった一人で、わたしのうちに、骨壷持参でやってきます。
聞けば「お母さんは死んだ。お父さんは分からない。」それだけでした(ですから伯父の遺骨は今もありません)。
伯母の家は、原爆が投下された・・とされる島病院からたった50メートルほどの距離です。ひとたまりもありません。
8時15分に、島病院の上空580メートル点で爆発した原爆は、熱の渦紋を描きながら、広島を焼き尽くしました。
爆心地の地表温度は(爆発時)4000℃~5000℃に達したと言います。
かくして、疎開した老母(当時68才?)と19才の長女をかしらに小学6年の次男まで4人が残されました。
4人の子は、焼け跡から、母親のものと思われる歯形をひとつ見つけ出して、彼らの叔母宅に身を寄せます。
今は広島市佐伯区五日市に、父の次姉が開業医に嫁いでいたのでした。
皆で相談したのでしょう、お骨はとりあえず生家である私の家の仏壇に安置しよう、あとのことは疎開中の祖母と相談しよう、
・・そんなことだったのでしょう。
お骨をもってきたのは末っ子の次男です。長男は中学2年でしたが、学徒動員先で閃光を浴びて右半身やけどを受け、
落ち着き先の叔母の医院で治療中でした。
このとき亡くなった伯母は41才、伯父は49才でした。
今考えると、なんと若いうちに命を奪われたのだろう・・・そんな感慨にふけります。
数年前のこと(それまで幾度も訪れました)原爆ドームを訪ねたとき、被爆した家々の名がプレートに刻んでありました。
もしや・・と思って読み進むと「笠井伊兵衛商店」とはっきりと刻まれていて、思わず涙がこぼれました。
代々続いた傘問屋でしたが、被爆後祖母を中心に姉2人弟2人の5人が家を再興します。
家業の傘問屋から、ガソリンスタンドを経て、今は広島市民球場(もうすぐ閉鎖されますが)の電車通りを隔てた真前で、
そこそこのビル1棟をもって、安定した生活を送っています(資産を残した先祖のおかげです)。
半身ケロイドの従兄は十数年前なくなりましたが、残る3人は健在です。
「笠井伊兵衛商店」はネットで検索したら、出て来ました。当時お骨を持って来た従兄の写真も出ていました。
いま、思い出しても切ない限りであります。
原爆がもとでの犠牲者数は今日まで25万3千余人にのぼる・・・と聞いております。
ただただ、合掌あるのみです。
・・・合掌・・・
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