熊本熊的日常

日常生活についての雑記

こどものにわ

2010年10月03日 | Weblog
6月に留学先の日本人会で会った人から「こどものにわ」の招待券を頂いていて、今日がその最終日だったので東京都現代美術館へ観にでかけてきた。この美術館は週末でもそれほど混んだりしないのだが、今日は異様に来館者が多く、閉館1時間前の午後5時だというのに長蛇の列ができていた。列の最後尾には看板を持った職員が立っている。看板には「ここからの待ち時間60分」とある。「こどものにわ」というのはそんなにスゴイ企画展だったのかと、平日に足を運んでおかなかったことを後悔した。しかし、よくよく列の行方を見ると、その先頭は「借りぐらしのアリエッティx種田陽平展」の入口に向かっていた。「こどものにわ」は、普段の週末のような感じだった。

自分の子供の小さい頃はジブリ作品は一通りビデオやDVDで観たような気がする。一部の作品は字幕翻訳の学校に通っていた頃に日本語表現の授業でも使われていた記憶がある。そんなわけで「千と千尋」などは何度も観ている。何度も観たのはこの作品が好きだからではなく、翻訳学校の課題の材料のひとつに選ばれていたからだ。

子供がアニメを卒業し、私が翻訳学校を終えてしまうと、ジブリ作品とも疎遠になってしまった。結局は「千と千尋」が私にとっては今のところ最後に観たジブリ作品ということになる。私はジブリ作品がそれほど好きではない。特に宮崎が監督をしているものは説教臭くて嫌だ。唯一、気に入っているのは「耳をすませば」だが、これは近藤喜文が監督をしている。近藤の監督作品が続いていれば、私とジブリ作品との縁も続いていたかもしれないが、彼は現在の私の年齢で大動脈乖離のために亡くなってしまった。「耳をすませば」は彼の唯一の監督作品ということになってしまったのである。

さて、「こどものにわ」だが、小規模ながらも楽しい企画展だ。入口からすぐの大巻伸嗣と出口手前の遠藤幹子による遊びの空間、それに出口のところの貼り紙のコーナーは時間を刻むことをテーマにしている。携帯電話やインターネットの普及で、我々はゲームの中で生起するような秒単位での皮相な変化に眼を奪われるようになってしまったように思う。しかも同時に、そうした変化はリセット可能なものとしても認識されているような気がしてならない。そうした風潮に対して物言いをしているかのように、ここに展示されている作品は後戻りできない変化をわかりやすく表現している。床に顔料で着色した砂で絵を描き、それが人々の通行によって日に日に消えていく。今日は最終日なので、床には絵の断片すら残っていない。微かに残る色粉が、言われてみれば絵の痕跡なのだと知って、そこに取り返しのつかない時間を知るのである。子供には、おそらく時間の重みというものは実感できないだろう。長い年月を生き、酸いも辛いも経験して人は人になるような気がする。出口直前の落書きや出口直後の貼り紙は、逆にまっさらの壁面に来観客がチョークで落書きをしたり色紙を貼ることで、時間の累積が表現される。ひとつひとつの落書きや貼り紙には意味がないが、それらが重なってみれば、全体としては模様のようになる。落書きのほうなら、あるいは意味を持った文言が出来上がることもあるだろう。このような作品を観ると、ひとつひとつの行為はその場では意味を持たなくても、他の行為と重ね合わせたり繋がったりすることで新たな価値を生む可能性があるということを示唆しているようにも見える。さらに言うなら、人が生きる世界において無駄な時間というものは一秒たりともないのだ、と解釈することだってできるだろう。また、床や壁面が自分の行為によって変化することで、自分自身もその変化から何事かを感じるという行為の双方向性を感じるかもしれない。もちろん、子供は落書きや色紙がべたべた貼ってある壁を見て、そんなことは思わない、たぶん。でも、時間が経てば物事は変わってしまうものなのだということを体感することは、おそらく彼や彼女たちが成長したときに、きっと健全な認識の基礎の一部くらいにはなっていることだろう。

ところで、閉館1時間前で入場までに60分待ちという場合、列の後半にいる人たちはどうなるのだろうか。美術館側が多少融通を利かせて、「アリエッティ」のコーナーだけ閉館を遅らせるのだろうか。「アリエッティ」も今日が最終日なので、入場できなかった人は日を改めてというわけいにはいかない。展覧会の性質上、待っている客の半分程度は子供たちだ。並んでいる側にとっても、美術館側にとっても、たいへんなことである。