熊本熊的日常

日常生活についての雑記

磁場探訪

2010年10月29日 | Weblog
問い合わせたいことがあったので、出勤途上で橙灯に寄る。店に入ると席が全て埋まっていたが、町内会長氏はおひとりだったので相席させて頂く。結局、ふたりで1時間ほどおしゃべりに興じ、出勤時間が近づいたので私が先にその場を失礼させて頂いた。

この店は不思議なところで、以前にも書いた通り、予めこの店を訪れるという意志を持って出かけないと辿り着けない場所にある。さらに、週のうち2日が定休で、そのうえに店主の都合で頻繁に休みが入る。夏は1ヶ月以上連続で休業する。そういう店なので平均的な稼働率は低いのかもしれないが、今日のように満席だったりすることもある。客は私のように既存客から誘われたり連れてこられたりして常連化した人が殆どらしい。「ここには磁場がある」と客の間ではささやかれている。

客が常連化するのは雰囲気が心地よくて飲食物がおいしいからには違いない。店主の方針ですべてのメニューが手作り品で、しかも材料から吟味されている。そういうものを頂くと、身体が喜ぶ気がする。そしておそらく、同じような感覚を得た人たちが常連化するのだろう。感性に共通するものある者どうしなので、自然に客の間で会話が始まる。そして会話を通して、互いに人や場所を紹介しあい、そこから静かにそれぞれの世界が広がっていく。

カフェの経営、というと商売のイメージになるのだろうが、銭儲けをしてナンボ、というだけで満足できるほど単純な人間というのはそれほど多くはないと思う。市場経済の社会全体としては、人々の生活を維持するために、仕組みとして経済的価値を創造し続けなければならないので、例えばカフェという事業世界に関してはスタバのような巨大資本に、巨大資本にしかできないような経営努力を続けてもらわないと困る。だが、暮らしている社会が市場原理に基づいているからといって、個人が全生活を賭けて資本の論理に付き合う必要は無いだろう。資本の論理に従って社会に対する一定の義務を果たし、対価として生活の糧を得る、ということを満足させていれば、そこから先は各自それぞれの人生を生きればよいだけのことだ。ただ、その「先」を生きるのに便利なものや場所がなかなか無いのも困ったことだ。尤も、こればかりは他人任せにはできないので、そういう場を求めることにこそ精を出さないといけないのだろう。

以前にも書いたように、人は無数の関係性世界を生きている、と私は考えている。人を持続的に惹きつけ強い絆を形成するのは、結局のところ感性の響き合いではないだろうか。ところが、そういうものに出会うのは至難なので、現象面としては「金の切れ目が縁の切れ目」というようなことになってしまうのだろう。人の幸せというのは、響き合える他者との出会い以外にあり得ないのではないかと思っている。出会うためにはどうしたらよいか、自ずと明らかだ。