熊本熊的日常

日常生活についての雑記

緩急の妙

2010年10月16日 | Weblog
昼間、竹橋の近代美術館で開催中の「上村松園展」と「茶事をめぐって」と常設展を観てから、夜、松戸へ行って柳家喬太郎の独演会を観てきた。上村松園と喬太郎の噺に、なんとなく共通したものを感じて面白いと思った。

上村松園が描くのは「美人画」だが、どれも自画像なのではないだろうか。勿論、それぞれにモデルがいたり、人形や能面を基に描いていることは知っている。しかし、考えすぎかもしれないが、当時の女性が置かれていた状況とか、そうしたなかで女性が画家として身を立てるということの困難を勝手に想像すると、どうしても作品に描かれている女性に、作者の覚悟を映したような、凛とした強さを見てしまう。例えば、先日、出光美術館での「日本美術のヴィーナス」に出品されていて、今回こちらの松園展にも出ている「灯」は若妻の姿を描いている。そこには新婚女性の初々しさも当然にあるのだが、灯りの蝋燭の火を着物の袖で守る姿に、灯りだけではなく家庭そのものを守ろうとする意志を感じてしまう。単なる若い女性ではなく、何事か使命を持ち、そのことを誇りに思う気持ちが透けて見えるように感じるのである。

逆に、どの作品もそうした溢れ出る内面を感じさせるのに、表情や佇まいには静謐が漂う。それは画の基になっている能面にも通じるもので、まだ一度しか観たことはないのだが、能という芸能が極めて形式的な動きに徹しているにもかかわらず、そこに感情のうねりが表現されていることを想起させる。おそらく、表現する側と観る側との相互作用がひとつの作品を創りあげるのだろう。絵画や演劇に限らず、物事というのは、遍く相互作用の創造物とも言える。同じものが人によって違って見えるのは、観る側の感性や知性にも拠るからだ。そういう点では、日本画や能は形式の決まり事が多いが故に表現が抑制されるだけ空想の自由が大きいとも言える。

空想という点では話芸である落語も聴衆の側に一定の知性と感性を要求する芸だ。古典ともなれば時代背景が今とは全く違うので、まくらのなかでそれとなく予備知識を説明する「仕込み」が無いと、細かいところで引っかかってしまう人などは噺の全体像を把握することすらできないだろう。新作にしても、人情の機微や社会への批判といった普遍性のある要素を織り込まないと単なる漫談になってしまう。今日のトリとなった「ハンバーグができるまで」は大好きな噺のひとつで、サゲが出色だ。古典にある典型的なサゲとは違った独創性があり、その一言で天地がぱっと広がるような気持ちよさがある。サゲというよりアゲと呼びたい。噺の主人公の「ノボルちゃん」は普通にうだつの上がらない男で、感情の起伏はどちらかといえば小さく演じられている。おとなしい奴が主人公では落語にならないので、取り巻きが個性豊かという組み合わせだ。後半、別れた妻が何の前触れもなく戻ってきて、夕食にハンバーグを作り、そのハンバーグを前にした会話がある。ノボルちゃんは元妻に未練があるようで、久しぶりの彼女の手作りの料理によりが戻るのではとの期待が静かに高まる。ところが、彼女がやってきたのは再婚の報告をするためだった。彼の落胆は彼女への怒りとなり、結局できあがった料理を一緒に食べることなく、彼女は帰ってしまう。後に一人残された彼が、付け合せの人参のグラッセを手にする。彼は人参が何よりも嫌いなのである。それでも鼻をつまんで無理やり人参を食べる。すると、…

突然、元妻がやってきたことの嬉しさ、その後の展開への期待の高まり、彼女がやって来た理由がわかって落胆し彼女への怒り、彼女が帰ってしまった後の空虚、嫌いなはずの人参を口にする、新たな地平が広がる、という流れになっている。サゲは彼の再生を暗示しており、そこから新たな物語が続くかのような余韻を秘めている。実はそうしたドラマチックな展開で、感情は激しく揺れ動くのだが、表面にはそれがあまり表れない。抑制の効いた表現なのだが、そうした彼の気持ちと一緒に聴いている側の気分も激しく揺れるのである。実際に聴かないとなんのことやらさっぱりわからないだろうが、この噺は後世に残るかどうか知らないが、私の中では間違いなく傑作落語のひとつだ。

本日の演目
柳家小んぶ 「権助芝居」
柳家喬太郎 「井戸の茶碗」
(中入り)
寒空はだか 漫談
柳家喬太郎 「ハンバーグができるまで」

開演 18時30分
閉演 20時30分

会場 松戸市文化会館