熊本熊的日常

日常生活についての雑記

炎の人

2010年10月22日 | Weblog
国立新美術館で開催中の「没後120年 ゴッホ展 こうして私はゴッホになった」を観てきた。ゴッホの絵が好きで、ゴッホの作品をたくさん観たい、という人には多少の不満があるらしい。事実、そういう会話をしながら私の傍らを通り過ぎた老婦人連が何組かあった。

私はゴッホの絵を観たことがある、と思っていた。そして、それは自分にとっては好きな絵ではない、とも思っていた。しかし、こうして彼の画家としての初期の作品から時間を追って眺めてみると、自分が観たと思っていたのは、彼の晩年に近いほうの一部の作品だけだったということがわかった。そして、初期においては私が好きなミレーを彼も好きだったということがわかった。そうしたことを知っただけでも、この展覧会を観に来てよかったと思う。画家、というよりひとりの人間の精神の変遷をその画風の変化から感じ取ることができるような気がするからだ。

絵画も写真も表現であり、当然に表現の主体が存在する。絵画や写真を観るのは、そこに描かれていたり写されていたりする世界を眺めるだけでなく、その世界を創造した思想や哲学にまで思いを馳せる行為だ。その作品の時代背景がどのようなものであり、そこで作家は何を考えていたのか、というようなことを想うのは、自分が年齢を重ねる毎に愉しくなってくる。まして私には絵心というものが無いので、必然的に関心の対象は技巧よりも表現にまつわる物語のほうに向かうことになる。だからゴッホのような著名な作家の作品に、今まで知らなかった背景知識を得て向き合うと、それ以前の印象と現在の印象との対比も愉しむことができる。そこに、作品を観ている自分自身の考え方とか目線のようなものを再発見することもある。美術品だけでなく、物事を見る眼というのは自己と対象との相互作用によって如何様にも変化するものだ。その変化を体験するだけでも嬉しいことである。

東京で普段目にすることのできるゴッホの作品といえば、損保ジャパン美術館の「ひまわり」、国立西洋美術館の「ばら」、ブリヂストン美術館の「風車」くらいだろうか。創価学会系の東京富士美術館というところに「鋤仕事をする農婦のいる家」という作品があるそうだが、ここは訪れたことがない。画家としての活動時期がわずか10年と短く、しかも評価されるようになったのは死後のことなので、明治から昭和初期にかけて日本の洋画界を築いた人々の目に留まることもなく、日本に入ってきた作品が少ないのだろう。おそらく日本でゴッホが注目されるようになったのは、安田火災(現:損保ジャパン)がロンドンのクリスティーズで「ひまわり」を落札し、大昭和製紙の齊藤了英氏がニューヨークのクリスティーズで「医師ガシェの肖像」を落札したバブル期の頃からではないだろうか。

ゴッホというと、自分にとっては同時代でもあるこれらバブル期の作品が思い浮かんでしまうので、バブルの恩恵から縁遠かった私にはゴッホの絵というものに否定的な印象がついて回るのかもしれない。また、そうした高額落札の華々しい報道と共に記憶されていることも、余計にゴッホの晩年の作品が脳裏に刻まれる理由のひとつになっているということもあるだろう。そうした印象を抱えたまま、20年前にドイツのアウグスブルクで通算3ヶ月を過ごした時には、ミュンヘンのノイエ・ピナコテークで「ひまわり」やオーヴェル=シュル=オワーズの風景画を観て、一昨年にロンドンで暮らしていた頃にはナショナル・ギャラリーの「ひまわり」や「アルルの部屋」、コートールドの「花をつけた桃の木々」や耳に包帯を巻いた「自画像」を観ているので、ゴッホは晩年の印象ばかりが強くなって自分の中に定着したように思う。

だからこそ、今回の展覧会で画業初期の作品を観て、初期から晩年に至る変遷を目の当たりにすると、彼の10年の重さのようなものが自然に伝わってくるのである。その変遷の大きさは、絵画についての専門教育を受けずに、27歳という比較的高い年齢で画業の道に入ったことで、短期間に職業画家として自立できるだけのことを吸収せざるを得なかったという切羽詰った状況にも拠るのだろう。しかし、そうしたことを差し引いても、彼の画を描くということに対する並々ならぬ情熱と覚悟とがあったということだろう。その真摯な熱さが彼の作品の背後に渦巻いているようにも見える。

ところで、この展覧会ではクレラー=ミュラー美術館の所蔵品の殆どに同じタイプの額装が施されている。以前は額にまで注意を向けなかったのだが、木工を始めてからは作品そのものと同じくらい額装も気になるようになった。会場での解説によると、ゴッホは自分の気に入った作品にしか額装を施さなかったという。つまり、彼の作品は「売れなかった」というより「売らなかった」のではないだろうか。自分が納得できるものは極めて数が少なく、それが「生前に売れた作品は1点だけ」ということになったのであって、決して評価を受けなかったわけではないのではないのだろう。そう考えると、彼の絵画に対する熱い思いは、「情熱」だの「覚悟」だのという表現を遥かに超えた病的なまでのものではなかったのかと思わずにはいられない。それならば、精神を病んだ晩年の在り様が了解されるというものだ。なるほど、彼は「炎の人」だ。