熊本熊的日常

日常生活についての雑記

忘れえぬもの

2010年10月20日 | Weblog
昨日、「ビックリハウス」のことを書いていて思い出したことがある。あの雑誌には「筆おろし塾」という書道の投稿欄があって、そこで見た作品で何故かいまだに記憶に残っているものがある。
「越谷の冬」
こう書くと、それがどうした、という感じなのだが、書道の半紙にこの文字が並んでいるのを見て、私が埼玉出身である所為もあるのだろうが、妙な衝撃を受けた。
「秩父の夏」
とか
「大宮の秋」
といったものだと、おそらく衝撃はそれほどでもなかったかもしれない。「越谷」という中途半端な感じが、今から思えば良かったのではないかと思う。

ここで言う「中途半端」とは、その言葉から受ける内容が固定できずに浮遊した感じ、というような意味である。東京で暮らしているという前提で語るなら、「越谷」という地名を耳にしたとき、それが近傍であるらしいことはなんとなくわかるけれど、どこだかわからない、という人は多いと思う。お隣の息子さんは越谷の栄光ゼミナールで英語を教えているらしい、とか、同じ部署の寺島さんは越谷に住んでいる、というようなことはあるだろう。それなのに、越谷がどこなのかということはあまり知られていないのではないか。
「ね、越谷ってどこだか知ってる?」
「越谷? 東武伊勢崎線じゃなかったっけ?」
「東武? あぁ、池袋から出てるやつ」
「そりゃ東上線」
「で、どこ?」
近いようなのだが、どこだかわからない、どうでもいい程度のフラストレーション。地名そのものよりも、その地名に纏わる妙な気持ち悪さが、記憶に深く刻まれるのではないかと思う。

だから、観光地として有名な秩父とか、昔のクイズ番組で「埼玉県の県庁所在地は?」という問題で「大宮」という誤答が多いくらいに知名度が高い大宮では、人の感情に訴えるものが弱いので「筆おろし塾」のコーナーには採用されないのである。

例えば、写真では主題となる被写体を画面中央ではなく、上下左右に少しずらした場所にすることで画に奥行きとか動きが生れる。似たようなことが、言葉にもあるのではないだろうか。