熊本熊的日常

日常生活についての雑記

ジャーナリズムという商売

2010年10月10日 | Weblog
マスコミの尖閣デモスルーの件 2chで大盛り上がり(R25) - goo ニュース

渋谷で行われた尖閣列島問題に関する反中国デモが海外のメディアでは報道されたが日本のメディアでは取り扱われなかったそうだ。「そうだ」というのは、私はテレビも新聞もない生活をしているので、そういうことを知らなかったからだ。

結局は報道機関も企業である以上、その存立の基盤となる権力の承認なしには存在し得ないのは当然だ。偶然、この時期に中国では劉暁波氏がノーベル平和賞を受賞したが、この件について中国のメディアは黙殺しているという。要するに、社会の枠組みのなかで活動をするということは、その社会の裏づけとなっている権威の承認を得ているということなのである。秩序というものは自然発生的に成立するものではない。人間はそこまで道徳的にはできていないし、毎度このブログで書いているように、人には我があり欲があるのだから、そうしたものを押さえ込んで社会という秩序を成立させるのは権威なのである。

一部にはジャーナリズムが正義の味方であるかのような幻想も依然としてあるようだが、報道機関の収益源はコンテンツの売上と広告収入だ。広告主の利益に反するようなコンテンツを流すことなどできないし、後々の企業活動に制約を受ける結果を招くようなコンテンツを流すこともできない。そういうことを承知の上で、報道を読み解くのが真っ当な市民の在り方ではないだろうか。

不景気だの少子化だのと騒がれている割には、日常の生活が安穏としているので、政治家は安心して政治家としての己の身分を守るというわかりやすい目的合理的な行動に走る余裕がある。政治家が社会への目を向けず、保身に汲々としているからこそ、首相がころころ交代しても政権党が交代しても、特にこれといった変化は起こらない。しかし、諸外国の眼には、政権が頻繁に交代するというのは背後に異変が生じているのではないかと見られるのも当然だろう。日本の権威に異変が起きているのではないか、と外から思われたからこそ、領土問題という池のなかに中国が尖閣列島という名の小石を投げ込んで波紋が広がる様子を観察したのではないか。その日中の様子を見て、ロシアも北方領土に然したる用もないのに大統領がはるばるやって来たのではないか。最近の円高も同じような文脈でとらえることができるのかもしれない。

国家とか企業のような不特定多数の集合体を律するのは権威だが、さらにそれらを取り巻く大きな社会の秩序は勢力均衡によってしか律しえないのだろう。映画などでは世界全体を支配する権力機構が登場したりするが、それはまだ空想の世界だ。それこそ映画のように、地球外の社会との交渉が始まるようになれば、オール地球でまとまらなければならないことになるのだろう。そのときになれば、地球全体を律する権威が生れるのかもしれない。

劉氏ノーベル平和賞受賞に祝福の声、徐々に拡大(産経新聞) - goo ニュース