先日、仁川国際空港で或る日本人が入国を拒否されたというニュースを見つけた。高円寺でリサイクルショップを経営している人だそうだが、検索してみると面白そうなことをしているようだ。早速、その人、松本哉の著作を一冊買い求めて読んでみた。
「貧乏人の逆襲!タダで生きる方法」を読んだのだが、書名から受ける印象とは違って、単なる実用書ではない。もちろん「方法」と謳っているので、形式的にはハウツーなのだが、その背後にある社会に対する洞察に注目するべきだろう。「貧乏人」だの「タダ」だのというタイトルの文字や、帯にある「格差社会への反乱」というような、最近よくあるキワモノ的な浅薄なものではないからこそ、筑摩書房というフツーの出版社が扱っているのである。
抱腹絶倒的記述に溢れていて、通勤途上の電車内で笑いを垂れ流しながら一気に読んでしまった。しかし、本書の肝心な部分はデモの起こし方でもなければ節約術でもない。人と人とが真っ当につながって生きることの快適さを語っているのである。コミュニケーションの基本は対面である。人は意識するとしないとにかかわらず、五感を総動員した上に、それこそ全身全霊で自分を取り巻くものを認識しようとしている。他者と関係を生ずるとき、相手を認識する際に外見や言葉といった記号的要素や言語化表現が可能な要素は勿論重要な判断材料だが、「なんとなく」相手から受ける「感じ」というものが大きな部分を占めているものだと思う。その「なんとなく」を抜きに、人は他人を信じることなどできないのではないだろうか。その「なんとなく」を得るのに、例えば鍋を囲むとか、コタツに入ってどうでもいい会話で盛り上がるといったようなことが有効なのだと思う。
本書の中で繰り返し指摘されているように、社会の仕組みというのはその時々に有力な勢力に都合の良いように作られている。明示的に指摘はされていないが、ひとたび仕組みが出来上がれば、社会はそれを無闇に守ろうとするものである。例えば、日本は小泉首相の後、1年交代で首相が変わり、昨年は政権も交代したが、それで社会が変るということはない。それは、政治にリーダーシップが無いとか、政治の力が弱いとかいうような表層の問題ではなく、確立された社会が持つ本来的な安定性によるところが大きいのではないだろうか。それならばなおさらのこと、たいした根拠の無い世間の「常識」などに付き合う義理はなく、公序良俗を犯さない範囲で好き勝手をしたほうが楽しいはずだ。人は関係性の存在なので、「楽しい」と実感するには他者とつながることが必要不可欠になる。そのかかわりかたとして、物理的に対面するのに勝る方法は無い。
携帯端末やパソコンでネットにつながっていても、それは単に情報の断片が往来しているだけであって、その断片自体に実体は無い。断片を総合することで幻想なり仮想実体を作り上げ、それが他者に評価されることで価値を生むのである。その総合化や幻想喚起には、ある程度の技術や権威付けが必要なので、そのために資本が関わってくる。資本が関わった瞬間に、「情報」とかそれにまつわる幻想は市場原理に組み込まれることになる。人が集まるイベントでも、入場料を支払うという経済行為が参加の条件になっているのならば、それは経済活動であり、消費行動であり、その場で体感する興奮を購買しているに過ぎない。
しかし、社会秩序を守る立場から見れば、市場原理ほどありがたいものはない。貨幣価値で世の中のありとあらゆるものを表現するのだから、なによりもわかりやすく、人を納得させやすい。その貨幣の裏づけは、社会の権威に対する信用以外の何物でもない。その権威の強さも貨幣価値で表示される。つまり貨幣という幻想で市場社会は完結するのである。
とすると、社会の安寧に対する最大の脅威は幻想が幻想であると認識されてしまうことだ。王様が裸であるということを認識してしまうことなのである。本書の著者である松本氏がこれまでに行ってきた貧乏人運動は「貧乏」という既存の市場原理のなかで否定されなければならない状況に積極的な価値を置くものだ。本人がどこまで意識しているか知らないが、それはとりもなおさず市場原理を基礎とする既存の社会に対する脅威になるのである。だからこそ、警察の取り締まりの対象にもなるし、外国が彼の入国を拒否することにもなる。
テロ行為をするという意味での危険人物は、単に猛獣のような危険でしかないので、そいつを抹殺してしまえば済むことだ。しかし、本当に怖いのは本当のことをばらしてしまう人である。社会を支える幻想が雪崩を打って崩壊することは、私のような下々にとっては愉快なことになるかもしれないが、権力を握っている側にとっては危険極まりないということだろう。
「貧乏人の逆襲!タダで生きる方法」を読んだのだが、書名から受ける印象とは違って、単なる実用書ではない。もちろん「方法」と謳っているので、形式的にはハウツーなのだが、その背後にある社会に対する洞察に注目するべきだろう。「貧乏人」だの「タダ」だのというタイトルの文字や、帯にある「格差社会への反乱」というような、最近よくあるキワモノ的な浅薄なものではないからこそ、筑摩書房というフツーの出版社が扱っているのである。
抱腹絶倒的記述に溢れていて、通勤途上の電車内で笑いを垂れ流しながら一気に読んでしまった。しかし、本書の肝心な部分はデモの起こし方でもなければ節約術でもない。人と人とが真っ当につながって生きることの快適さを語っているのである。コミュニケーションの基本は対面である。人は意識するとしないとにかかわらず、五感を総動員した上に、それこそ全身全霊で自分を取り巻くものを認識しようとしている。他者と関係を生ずるとき、相手を認識する際に外見や言葉といった記号的要素や言語化表現が可能な要素は勿論重要な判断材料だが、「なんとなく」相手から受ける「感じ」というものが大きな部分を占めているものだと思う。その「なんとなく」を抜きに、人は他人を信じることなどできないのではないだろうか。その「なんとなく」を得るのに、例えば鍋を囲むとか、コタツに入ってどうでもいい会話で盛り上がるといったようなことが有効なのだと思う。
本書の中で繰り返し指摘されているように、社会の仕組みというのはその時々に有力な勢力に都合の良いように作られている。明示的に指摘はされていないが、ひとたび仕組みが出来上がれば、社会はそれを無闇に守ろうとするものである。例えば、日本は小泉首相の後、1年交代で首相が変わり、昨年は政権も交代したが、それで社会が変るということはない。それは、政治にリーダーシップが無いとか、政治の力が弱いとかいうような表層の問題ではなく、確立された社会が持つ本来的な安定性によるところが大きいのではないだろうか。それならばなおさらのこと、たいした根拠の無い世間の「常識」などに付き合う義理はなく、公序良俗を犯さない範囲で好き勝手をしたほうが楽しいはずだ。人は関係性の存在なので、「楽しい」と実感するには他者とつながることが必要不可欠になる。そのかかわりかたとして、物理的に対面するのに勝る方法は無い。
携帯端末やパソコンでネットにつながっていても、それは単に情報の断片が往来しているだけであって、その断片自体に実体は無い。断片を総合することで幻想なり仮想実体を作り上げ、それが他者に評価されることで価値を生むのである。その総合化や幻想喚起には、ある程度の技術や権威付けが必要なので、そのために資本が関わってくる。資本が関わった瞬間に、「情報」とかそれにまつわる幻想は市場原理に組み込まれることになる。人が集まるイベントでも、入場料を支払うという経済行為が参加の条件になっているのならば、それは経済活動であり、消費行動であり、その場で体感する興奮を購買しているに過ぎない。
しかし、社会秩序を守る立場から見れば、市場原理ほどありがたいものはない。貨幣価値で世の中のありとあらゆるものを表現するのだから、なによりもわかりやすく、人を納得させやすい。その貨幣の裏づけは、社会の権威に対する信用以外の何物でもない。その権威の強さも貨幣価値で表示される。つまり貨幣という幻想で市場社会は完結するのである。
とすると、社会の安寧に対する最大の脅威は幻想が幻想であると認識されてしまうことだ。王様が裸であるということを認識してしまうことなのである。本書の著者である松本氏がこれまでに行ってきた貧乏人運動は「貧乏」という既存の市場原理のなかで否定されなければならない状況に積極的な価値を置くものだ。本人がどこまで意識しているか知らないが、それはとりもなおさず市場原理を基礎とする既存の社会に対する脅威になるのである。だからこそ、警察の取り締まりの対象にもなるし、外国が彼の入国を拒否することにもなる。
テロ行為をするという意味での危険人物は、単に猛獣のような危険でしかないので、そいつを抹殺してしまえば済むことだ。しかし、本当に怖いのは本当のことをばらしてしまう人である。社会を支える幻想が雪崩を打って崩壊することは、私のような下々にとっては愉快なことになるかもしれないが、権力を握っている側にとっては危険極まりないということだろう。