熊本熊的日常

日常生活についての雑記

「でみせでみせて」

2011年08月07日 | Weblog
青空市二日目は商品を並べる台の大きさを半分にする。陳列のボリュームが商売という観点ではそれなりに重要であることは承知しているが、並べるものが無いのだから仕方ない。幸か不幸か、今日は昨日にも増して暑さが厳しく、そもそも人通りがいつにも増して疎らだったので、商品を並べた後は、コーヒー豆の手焙煎を眺めていたり、それが一段落した後は13時頃まで店の中で過ごした。外に戻ってほどなくして、学生時代の友人が大汗をかきながらやってきた。一緒に店でカレーライスを食べながら歓談をしているうちに、カフェのほうの客が増えてきたので、邪魔にならないよう場所を空けるべく席を立った。彼が帰るときに1枚買ってくれて、今日は売上ゼロにならずに済んだとほっとすると、昨日来店していただいたお客様が何人かやってきて、今日もひとつづつ買っていただいた。その後、新規のお客様も現れて、今日の売上は5枚。在庫を持ち帰るのにどうしようかと心配していたが、おかげさまでカバンに詰めて難なく電車で帰ることができた。

今日の商品は皿だけではないので、昨日の「さらのさら」という銘は使うことが出来ない。もともと暑中見舞いを兼ねて送った案内のはがきには「でみせでみせて」と銘打っていたので、それを使う。はがきを出したときには「でみせでみせて」には「出店で見せて」という意味と「出店で魅せて」という思いを重ねたつもりだったのだが、後になって考え直してみると、出店者が自から「魅せて」というのはおこがましいだろうと思った。そこで、「さらのさら」という当たり障りのないものに変更したのである。しかし、個展に続いて昨日もお買い求めいただいたお客様が何人かおられることを目の当たりしてみると、「魅せて」と書くつもりで精進しなければ、そうしたお客様に対して失礼になると考え直した。はがきに書いてしまったということもあり、この機会に襟を正すつもりで敢えて「でみせでみせて」と銘打つことにした。

今回は1,000円均一の値付けにした。理由はいろいろあるのだが、自分としては生活用品を作っているつもりなので、使う人の普段の生活に埋没するようなものでありたいと思っている。高い値段でも売れるなら嬉しいかもしれない。「かもしれない」というのは3,000円を上回る値段のものが売れたことがないので、嬉しいかどうかわからないというだけのことだ。ただ、永六輔の「職人」という本のなかで紹介されていた藍の絞り染め職人の話には共感できるのである。それはこういう話だ。

***以下引用***
片野元彦さんという藍の絞り染めの職人さんがいました。現役のパリパリで活躍していた頃なんですが、あるとき、料理屋で自分の作った風呂敷が額縁に入れて飾られているのを見た。それで仕事をやめちゃったんです。
「これはきっと、オレのつくった風呂敷が物を包むためのものじゃなくて、額縁に入れるのにふさわしいものになってしまったからだろう。オレの仕事がどこかで威張っていたとすれば恥ずかしい」
片野さんはそう思って、自分のつくったものからそういう嫌らしさが消えるまで、仕事をしないと言った人でした。
***以上引用(永六輔「職人」岩波新書 67頁)***

この本に紹介されている職人の言葉にはいろいろ考えさせられることが多い。本は子供に渡してしまったので手元にないのだが、私の手帳には以下のような書き写しがある。

「何かに感動するってことは、知らないことを初めて知って感動するってもんじゃこざいませんねェ。どこかで自分も知ってたり考えていたことと、思わぬところで出くわすと、ドキンとするんでさぁね」(13頁)

「他人と比較してはいけません。その人が持っている能力と、その人がやったことを比較しなきゃいけません。そうすれば褒めることができます」(36頁)

「田舎の人は木に詳しいから伐り倒す。都会の人は木を知らないけど守りたがる」(45頁)

「褒められたい、認められたい、そう思い始めたら、仕事がどこか嘘になります」(60頁)

「安いから買うという考え方は、買物じゃありません。必要なものは高くても買うというのが買物です」(69頁)

なんだか知らないが、いいなと思うのである。