熊本熊的日常

日常生活についての雑記

こわれゆく世界のなかで

2011年08月10日 | Weblog
そういうタイトルの映画があった。原題は「Breaking and Entering」なので、別の邦題が与えられていたら、今思い出すことはなかったかもしれない。その作品の舞台もロンドンだったが、ロンドンは今、映画のタイトル通りのようなことになっているらしい。日常業務では、2人のロンドン在住の同僚とネット上で一緒に仕事をしているが、片方は郊外で在宅勤務であり、もう片方はパディントン駅近くに住んで、時々在宅、時々職場へ出勤しながら生活している。我々の勤務自体に、今のところは特に暴動の影響というようなものはない。

このブログの2007年9月23日から2009年1月9日までの分がロンドンで書かれたものである。マンチェスターで暮らしていたのは1988年6月から1990年7月にかけてなので、このブログにその当時の記載はない。ブログの有無はともかくとして、彼の地での生活体験に照らしてみると、報道されている暴動の記事を読んだり写真を見たところで、そういうこともあるだろうな、という程度の感想しか浮かばない。暴動が発生した場所を地図にプロットしたサイトがある。それを眺めてみて、意外感を覚えたところはひとつもなかった。

報道のなかには、経済政策の失敗であるかのような書き方をしているものもあるようだが、これはそういう昨日今日の話ではないと思う。かなり微妙な問題なので、匿名とは言え、ブログという社会に公開されているメディアに思うとろを正直に書くのは、やはりやめておいたほうが良いだろう。

以前に書いたかもしれないが、特にロンドンでの生活で感じたのは、そこが東京の近未来の姿ではないかとの印象だった。イギリスは歴史的には世界の先頭を切って工業化とそれにともなう国富の増大を経験し、世界の全ての大陸に領土を保有していた時期もあった。そして、やはり先頭を切って国力の衰退を経験している。ロンドンの街を縦横に走る地下鉄は、毎週末にどこかしら区間運休をして徹底した保守点検作業を実施しているにもかかわらず、毎日どこかしらで故障や不具合が発生して運行が乱れている。それは保守が追いつかないほど老朽化しているということなのかもしれないし、鉄道というシステムを安定的に運用するに足る規律が失われているということかもしれない。中国の国威をかけた新幹線が開業数年で乗員乗客の死傷を伴う事故を起こしたのに対し、日本の新幹線は1964年の開業以来、死傷事故を発生させていないばかりか、3月の震災においてはあの激震のなかで営業中の列車の脱線事故が1件も発生しなかった(回送中の車両の脱線は1件あった)。鉄道は車両や軌道の技術的要素の集積もさることながら、運行する人間の規律が安全の要になる。システムというのはそういうものだ。ロンドンの地下鉄も定時運行が当然であった時代があるはずで、とりあえず動いているという今日の状況の背景には国として文明としての老朽化が少なからず影響していると思うのである。新幹線は定時運行が守られていても、山手線や中央線が定時運行を実現した日というのは久しく無いのではなかろうか。国鉄が民営化されて鉄道事業として利潤追求が当然に求められるなかでコスト削減のために人員が減らされている、あるいは、人身事故が多いという事情があるにしても、運行可能であるはずのダイヤを守ることができないということが、この国の文明の疲弊を象徴しているのではないかとも思うのである。ここで言う「文明」とは、梅棹忠夫の「建築や道具などの装置系と政治や経済などの制度系で構成されているシステム」という定義を念頭に置いている。

鉄道システムが特殊なものなのか、ある文明を象徴するものなのかということは改めて議論が要求されることだと承知している。ただ、私にとっては、毎日利用している鉄道のシステムとしての信頼性や、駅や車両の清潔度が、自分の属する文化や文明の何事かを象徴するものなのである。定時運行できない山手線は、この国の未来の暗示として私のなかで認識されているのである。そういう眼でロンドンの地下鉄を見ていた者にとっては、あちこちで暴動が起こって商店が略奪を受けるという現在の状況は、その規模の大小にかかわらず、驚くべきことではないのである。3月の震災では、略奪行為が皆無であったとは考えられないが、総じて秩序が維持された日本でも、このまま文明の衰退が続けば、ああいう事態に陥るのは自然なことのように感じられる。ロンドンの暴動はバーミンガムやマンチェスターをはじめとする英国各地に飛び火したが、同じ文明のなかで、その文明のありようを示す現象が転移するのは当然のことだろう。「グローバル化」という言葉は近頃死語になりつつあると感じられるほどに当たり前のことになっているが、世界が文明を共有する方向に動いているとするなら、それが英国という枠を超えてパリやベルリン、ニューヨーク、そして東京に飛び火したって違和感はないはずだ。

物事には終わりというものが必ずある、と思う。生物のなかには老化のないものもあるらしいが、そうしたものも生態系の食物連鎖のなかで捕食されてしまうため、増え続けることはないのだそうだ。どういうわけだか知らないが、時間というものを意識するとき、我々には過去より現在、現在より未来を自分にとって都合の良いように思い描く傾向があるような気がする。どの時代のどの場所に生まれてもそうなのか、未来を明るくイメージするにはそれ相応の条件が必要なのか、ということは知らない。ただ、この国に居て見聞すること、例えば、国や企業の「ナンか年計画」のようなものや政策方針のようなものはどれも未来が今よりも自分たちにとって好ましい状況にすることを目標にしているし、「ボクのユメ、ワタシのユメ」というようなお題で子供に絵を描かせたときに画面に展開されるのは楽しげな風景であることが殆どだ。未来を明るくイメージするというのは、滅亡を運命づけられているものの自己防衛本能によるものなのではないだろうか。明るい未来を信じないことには精神の平衡を維持できないということだと思う。