熊本熊的日常

日常生活についての雑記

鬼が笑う

2011年08月08日 | Weblog
今日は立秋。そろそろ正月のことを考えないといけない。来年も1月に作品展を開くとすると、今から準備を始めないと間に合わない。今年は年初から一個挽きで大きめのものばかり作っているので作品の絶対数が少ない。その少ないなかから、昨日と一昨日の青空市で20数点販売してしまったので、在庫が殆どない。これはたいへんありがたい状況である。喜ぶべきことである。自分が作ったものを評価していただけるというのも、もちろんありがたいことであるし、作ったものが手元に残らないということは、新しいことを考える妨げがないということでもあるという意味でも、喜ばしい。

「坂の上の雲」のなかにこんな言葉が登場する。
「…たとえば軍艦というものはいちど遠洋航海に出て帰ってくると、船底にかきがらがいっぱいくっついて船あしがうんとおちる。人間も同じで、経験は必要じゃが、経験によってふえる智恵とおなじ分量だけのかきがらが頭につく。智恵だけ採ってかきがらを捨てるということは人間にとって大切なことじゃが、老人になればなるほどこれができぬ」(中略)「…おそろしいのは固定概念そのものではなく、固定概念がついていることも知らず平気で司令室や艦長室のやわらかいイスにどっかとすわりこんでいることじゃ」(司馬遼太郎「坂の上の雲」文春文庫 第二巻 324頁)

どれほど些細なことであっても、自分が何事かを成した、という感覚を得ることは、成功体験として自我を支えると同時に、そのときの諸々の偶然の幸運には目をつぶり、自分自身の何事かについてのささやかな能力を過大評価する材料になるものだ。己に対する信頼感を醸成することは、生きていくうえでの居心地を整えるのに有効だが、刹那の満足に執着すると現実を見失い、その満足を帳消しにしてあまりあるほどの災厄を招くことにもなりかねない。

自分が作った有形無形すべてのものが、作ったそばから離れていく、というのが私の理想の生活だ。ものごとへの執着というのは、そう簡単に捨て去ることができるものではない。どれほど些細なものであっても、執着心は人を醜くする。容易なことではないからこそ、執着を捨てることは理想なのである。

話が大袈裟になったが、在庫を持たないのは好ましいことで、醜い奴は嫌いだということが言いたかっただけだ。