熊本熊的日常

日常生活についての雑記

そういうこと

2011年08月11日 | Weblog
まずは、今日読み終わった本から引用させていただく。

***以下、引用***
 まわりの人々との相互参照・模倣を通じて、自分の立ち位置を決め、つねにマジョリティと行動を共にすることを生存戦略として採用する人間は「おのれの単独性を引き受ける気がない」。これはどなたもおわかり頂けるであろう。
 おのれの単独性を引き受ける気のない人間ばかりで構成された社会が大衆社会であるということ、これも納得がゆくはずである。
 しかるに、そのような社会は必然的に無数の小集団に分裂してしまう。
 自己判断せず、マジョリティと共にあることを原則としている人間ばかりで構成された社会は四分五裂してしまう。「癒合」する社会とは「分裂」する社会なのである。
 不思議に思われるかもしれないが、考えてみればわかる。
 マジョリティと行動を共にする人間は、とりあえず隣にいる「声のでかい奴」の言い分に「はいはい、おっしゃるとおりです」と一も二もなく服従してしまう。こういうタイプの人間は「マジョリティ」に付き従っているつもりで、実はきわめてローカルな「声のでかいやつ」に付き従っているだけ、ということがあってもそのことに気がつかない。
 なにしろ、彼は自分や隣人やさらにその隣人たち全体を含む社会を鳥瞰的に見下ろすような「マップ」を持っていないからである。
 自分の単独性を引き受けることができないということは、言い換えれば、自分が「どのような仕方で、他の誰によっても代替できない固有の存在であるか」を言うことができないということである(それがわかっていれば、誰も隣の人間の真似などしはしない)。
 つまり、大衆とは自分を含む社会全体の「地図」の上の自分の立ち位置を「私はここにいます」と指すことができない人間たちだということである。
***以上、引用(内田樹「知に働けば蔵が建つ」文春文庫 76-77頁 「貴族と大衆」)***

そういうことか、と思った。自分の身の回りのことも、この国の政治のことも、この大衆というものについての説明で了解できる。政治家というと、なんとなく特別な人のような気がするが、我々の暮らす大衆社会を個別具体的かつ象徴的に体現する存在なのだというふうに理解すれば、あれはああいうふうにしかならないというように納得できてしまう。

政治を批判するとき、ビジョンがない、というようなことが言われるが、ビジョンを持った政治家が大衆社会の代表者たりえないということは自明のことなのである。

東京で暮らしていると、景気の悪い話ばかりで、殊に3月の震災と原発事故以降は電力消費を控えるために冷房の温度を高めにしたり、昼間の電車を間引きしたり、夜間の街灯を減らしたり、どよんとした雰囲気をさらに重苦しくするようなことになっている。えらいことになったもんだなぁ、と汗をぬぐいながら日常の風景を眺めているが、そのえらいことになっている国の通貨が買われていて、今や過去最高の円高水準だ。外国為替相場というのは、世界の資金が比較的安全なところへ移動する姿を映すものなので、なんだかんだ言っても、この国が世界のなかではマシなほうだ、というのが世界の人たちの評価であるといえる。ということは、米国や欧州はトンデモナイことになっているということなのだろう。

世界がトンデモナイことになっているなら、そのなかにあるこの国もやっぱりトンデモナイということなのである。比較すればマシということは、あまり救いにはならない。かといって、世界が沈没するなかでは逃れる先がない。どのようなことであれ、物事には終わりというものがある。まぁ、仕方がないか、と思っていたら、ロンドンで暮らしていた頃に住んでいたところの近所の映画館から毎週送られてくるメルマガの先頭に載っている作品が「Rise of the planet of the apes」だった。