熊本熊的日常

日常生活についての雑記

Da vicino nessuno e nomale.

2011年08月25日 | Weblog
午前中、銀座のアップルストアでOne to Oneセッションを受講して外に出ると、なんとなく映画が観たくなった。近くのシネスイッチに行ってみると、ちょうど「人生、ここにあり!(原題:SI PUO FARE)」の上映が始まるところだったので、そのままチケットを買って中に入った。

この作品はイタリア映画で、本国では2008年公開だが、物語の舞台は1983年のミラノである。イタリアでは1978年に法改正があって、精神病院が閉鎖されることになったのだそうだ。精神病というのは患者を病院に隔離することによって対応するのではなく、一般社会のなかで生活を送りながら治療するものだとの考え方を国家として採用したということだ。

映画なのだから、役者が精神病患者を演じているわけで、スクリーン上の患者たちはどこか患者らしくないように見えるのは当然なのかもしれない。しかし、どのような状態が異常で、どうあることが正常なのかというところの線引きがそもそもできないというのも確かなことだろう。実際、身の回りのあの人この人を少しデフォルメすると、スクリーン上のあの人この人によく似ている、ように見えないこともない。私だって、他人から見れば病的な性向をいくつもあげつらうことができるのかもしれない。それが、病人として扱われるのか、そうではないのか、その境目というのは、その人が置かれた状況によるところが大きく、それはつまり単純に運とか縁なのではないかとも思うのである。

誰しも、自分はまともだと信じている。そこを土台にして物事を眺めるから、自分の間尺に合わないものは「異常」として自分の世界から排除することを図る。それが穏当なやりかたでおさまっている限りにおいては、特段に深刻な問題は起こらないのだが、相手や周囲に対して危害が及ぶようなことになると、その「異常」は社会から排除されるべく対応を受けることになる。その「危害」にしても、極端な場合ばかりではない。迷惑だが我慢できるかどうか微妙なところであれば、ある人にとっては「異常」でも別の人には「少し変」という程度にしか認識されないというようなこともある。むしろ、そうした境界上の事象のほうが圧倒的に多いだろう。そうした「微妙」が無数に組み合わされて「正常」を成しているのが現実というものではないだろうか。ということは、盤石な「正常」というものはあり得ないということになる。それは社会についても人間についても言えることで、だからこそ、社会には「こんなものが必要なのだろうか」と思えるようなことにまで事細かに法律や官僚組織が「微妙」を可能な限り言語化・明文化すべく張り巡らされているのであり、個人には他人から見れば奇妙奇怪なことも含めた習慣に依存する性向が刷り込まれている。個別には「お役所仕事」であったり「変な癖」であったりすることでも、それらの総合として捉えれば比較的安定した体系を成すようになっているということだろう。もっと言えば、「全体」が「部分」の相似形ではないのである。「部分」をいくら仔細に見たところで、他の「部分」との関係にまで検討がなされなければ、そこから安易に「全体」を論じることはできない。「部分」と「部分」との関係など無数にあるのだから、そもそも「部分」から「全体」、「全体」から「部分」という物事の理解の仕方はそれなりの危険を伴うということは認識しておくべきなのだろう。

この作品は実話をもとに作られており、映画は精神病院なき社会での精神病患者たちの現状についての説明文で終わる。映画のプログラムのなかで、それを引用している文章があったので、ここでも紹介させていただく。
「Oggi in Italia esistono oltre 2,500 cooperative sociali che dano lavoro a quasi 30,000 soci diversamente abili. (今、イタリアには2,500以上の協同組合があり、ほぼ30,000人及ぶ異なる能力を持つ組合員に働く場所を提供しています。)」

「能力」というとき、自ずとそこには優劣の概念が含まれてしまう。そして劣位にあるものは排除される脅威に曝される。集団から排除されたものは、少なくともその集団のなかでは居場所はない。どの集団からも排除されたものは、どこにも居場所がない。「能力」を優劣で計るのではなく、差異として見るならば、あるいは「異なる能力」として集団のなかで機能する場を得ることができるかもしれない。優から劣に至る直線的な尺度で物事を捉えるのではなしに、差異としてそれらを組み合わせるという観点の下では、同じ風景が違って見えるかもしれない。この作品のなかで、床板貼りの仕事中に材料となる板材が底をついてしまい補充が間に合わないという場面がある。一方で納期が迫っていて一刻の猶予もならない。そこで組合員のなかに「材料としての板」ではなく「板」に反応した者が、端材の板を集めて持ってきた。それをモザイクのように組み合わせて床は完成する。結果として、それが注文主から好評を得るのである。端材は「材料の規格」という意味では廃材である。しかし用いかたを工夫することで材料になる。この端材は協同組合で働く元患者たちでもある。

「適材適所」という言葉あるが、これは幻想ではないかと思われるほどに現実では容易に実現されないものだ。それが、この作品で取り上げられている「協同組合180」では実現されている。もちろん、実話に基づいているとはいえ、これは映像作品だ。現実をモチーフにしながら、そのある側面を誇大に表現するのはあたりまえのことではある。しかし、「適材」も「適所」も与件として存在するのではなく、そこに関与する人たちが意識的に創造するべきものなのだということは、もっと広く認識されてもよいと思う。

この協同組合が本当に組織として機能しているとするなら、その鍵になるのは物事を否定しないということだろう。特に、構成員であるひとりひとりの人間を、それがどれほど場違いであろうとも、頭から否定してはいけないということだ。「場違い」であるかどうかは、その場ではわからないのである。「場違い」という判断も「私」のものであって、それが他者と共有できる認識であるかどうかは、やはりその場ではわからない。映画のなかで会議の場面が何度かある。議事を進める主人公は、どのような意見に対してもポジティブな言葉を加えながら取り上げる。自分の言葉が取り上げられた人の表情は明るく変化する。そういうことの積み重ねが、組織や社会の連帯感につながっていくのだろう。

我々の日常では、ことあるごとに「効率」だの「無駄の排除」だのと語られるが、そこに「効率」や「無駄」の定義が検討された形跡が感じられないことが多い。無闇に切って捨てることが「効率化」だと信じている人が多いようだが、それぞれの部分での「効率」を追求すれば、自動的に全体の最適が実現すると何の考慮もなしに信じきっている人が多すぎはしないだろうか。それもまたある種の狂気だと私は思う。

「Da vicino nessuno e nomale.」は精神病院閉鎖推進派のスローガンだそうだ。日本語では「よくみれば、みんなどこか狂ってる」。