熊本熊的日常

日常生活についての雑記

7回目のベル

2011年08月27日 | Weblog
月に一度の茶道の稽古が、今月は普段とは違って今日第四土曜日になった。稽古の後、よみうりホールで落語教育委員会を聴く。この落語会では冒頭に出演者三名によるコントがある。開演の前に携帯を切っておくように、というメッセージをコントによって表現しようというのである。

落語教育委員会を聴くのはこれが2回目で、前回はにぎわい座だった。平日夜が仕事なので、落語会は週末か祝日のものしか聴きに行けない。それでも昨年は24回、一昨年は10回、落語会に足を運んでいる。さすがに昨年は多すぎたと感じているので今年は控えめにして、今日でまだ8回目だ。平日夜と土日とで、客層に違いがあるのかないのか知らないが、少なくとも携帯電話が口演中に鳴ったという光景に出くわしたのは、記憶している限りでは一回だけである。いろいろ言われている割に、客のマナーがどうこうというのを目にしたことはあまりない。あまりないから逆に、たまにそういうことがあると妙に記憶に残ってしまう。忘れもしないのは、草加での小三治の独演会で、よりによって口演、それもトリの途中で前のほうのセンターの席にいた30前後の夫婦らしい男女が席を立って会場を出て行ってしまったことだ。そのときの演目は「小言念仏」。例によってマクラが長かったことは確かだが、落語会の途中で席を立つというのには驚いた。口演に不満があったということではなく、何か予定があって、それに間に合うように、落語会のほうは途中で失礼する、というような様子に見えた。それにしても、失礼というか野暮というか、「そうか、草加とはそういう土地なのか」と思われても文句の言えない情景だ。あと、中野だったか練馬だったかで、ひとつの演目中で2回、しかもおそらく同一人物の携帯が鳴ったことがあった。こちらは三三の独演会だったと記憶しているが、その携帯の着信音をすっと噺のなかに取り込んでみせたのは流石だと感心した。この2年8ヶ月間の42回の落語会で、いかがなものかと感じる出来事が、記憶している限りで、その2回だけである。これは少ないと言えるのではないだろうか。

携帯については、事情があってどうしても電源を切るわけにはいかないという人もいるだろう。しかし、けっこう多いのではないかと想像されるのは、電源を切ることができない、という人の存在だ。携帯が鳴って、電話に出るまでの様子をそれとなく観察していると、妙に時間のかかる人が少なくない。高齢者に多いのだが、携帯が鳴ると、まず電話機をかばんなどから取り出すのにまごつく。取り出した後、なぜか電話を手に固まっている人が多い。ディスプレイに表示されている文字を読んでいる、というようなことなのだろうか。それから通話を開始するためにボタンを押すのにまごつく。それからようやく電話に出るのである。この間、当然ながら着信音はなりっぱなしである。そういう人に、マナーモードがどうこうとか、電源がどうこうというのは、そもそも無理なのではないだろうか。

かと思うと、着信を予知していたかの如く、すぐに電話をとる人もいる。茶道教室で総務的な用事を任されている人がいるのだが、彼女に出欠の連絡で電話をすると着信音が鳴らないのである。鳴っても1回だ。それくらい素早く反応して、しかも声が落ち着いている。慌てて出た、とうような雰囲気ではない。これには毎回感心する。年齢は私より少し下という程度だろう。ご主人は私と同い年だという。つまり、物心ついたときからそういうものに囲まれていたというようなことではないのである。「いつも電話取るの早いねぇ。」と、その理由を尋ねてみるのだが、本人は「たまたま」なのだという。

昔、宇多田ヒカルの「オートマチック」という曲を聴いたとき、出だしの歌詞にいきなり違和感を覚えた。
「7回目のベルで電話を取った君」
電話のベルを7回も鳴らすというのは、一体どのような状況なのだろうか、と思ったのである。新入社員の頃、かかってきた電話のベルが3回以上鳴ると隣の島の部長に怒鳴られた。「すぐに出ろ!」
電話でどうこうする仕事だったので、たいていは自分が電話中なのである。出たくても出られるものではない。隣の席の先輩社員が小さな声で「んなこと言ったって、出られるわけがねぇよな。」私はそういう世代なのである。後で聞いたところでは、この歌詞に出てくる「電話」は携帯電話のことなのだそうだ。それで「あ、なるほどね」と清々しい気分になったのを、昨日のことのように憶えている。

本日の演目
桂才紫 「宮戸川」
柳家喜多八 「付き馬」
(中入り)
柳家喬太郎 「お菊の皿」
三遊亭歌武蔵 「夏の医者」

会場:よみうりホール
開演: 18時すぎ
終演: 20時15分頃