学校というのは「学ぶところ」ということらしいが、「学ぶ」というのは己の主体的行為であるから、自分が学ぼうとしなければ学ぶことはできない。講義も実技も、それ自体は学ぶための材料であって、講義や実技指導を受けることが学ぶことではない。そこから自分が何かを考え、自分とそれを取り巻く世界との間の関係や交渉について多少なりとも明らかにできるようにすることが学ぶということなのではないかと思う。もちろん、若いうちには単に知識を得るだけ、知識を得たという証明を得るだけ、というようなことも生活の糧を得るための手続きの一部として必要であるのは確かだ。しかし、それで終わってしまうのであれば、そもそも生きていてもしょうがない。自分がなぜ在るのかということに自分なりの解答をする一助を得るのでなければ、どれほど多くの知識を得たところで何も学んだことにはならないだろう。生まれることは選べない。生を与えられれば、それを生きるよりほかにどうしょうもない、ということほど理不尽なことはあるまい。ところが、その理不尽にしがみつくのが生活というものでもある。そして生活は守るべきもの、というのが世の中の仕組みの前提でもある。生活とか世の中といったものは、何の根拠もなくそこに在る。在るのが当然という合意だけが根拠といえば根拠かもしれない。そんな吹けば飛ぶようなものは、地震があろうがなかろうが、原発がどうなろうが、独裁者がいようがいまいが、暴動があろうがなかろうが、国家財政が破綻しようがしまいが、「国家」なるものがあろうがなかろうが、消え去ってしまうものなのである。しかし、それでは話にならない。「話」、世の中についての物語、秩序、構造、何と呼んでもよいのだが、そこに在る人たちが共有できるような空想とか幻想が、与えられた生を生きるためには必要なのであろう。自分の物語を紡ぐことが学ぶことでもあるのではないかと思うのである。
今日はスクーリングの最終日。今年はこれまでにスクーリングを受けた科目の課題に取り組むことにして、これ以降のスクーリングは受講しないことに決めた。
今日はスクーリングの最終日。今年はこれまでにスクーリングを受けた科目の課題に取り組むことにして、これ以降のスクーリングは受講しないことに決めた。