熊本熊的日常

日常生活についての雑記

「一枚のハガキ」

2011年08月21日 | Weblog
朝から雨。家事などを片付け、夕方に映画を観にでかける。まずはテアトル新宿へ直行。映画館前には「混雑しているので…」という貼紙がある。現在上映中の「一枚のハガキ」は各回入替制で全席指定席。切符を買ってから腹ごしらえに行く。

なんとなくカレーライスに決めていた。それも紀伊国屋の地下のカレーだ。子供の頃からずっと気になりつつも、地下道から上がってすぐのところの店で食べたことがなかった。今日はアドホック側の入口から入ったのだが、午後5時過ぎという時間の割に混んでいて、同じくカレー屋の「Mon Snack」はほぼ満席だったが、目的地である「ニューながい」は客がひとりもいなかった。迷うことなく「気まぐれカレー」の中辛を注文する。具材を炒める音がして、しばらくするとかぼちゃとミニトマトがゴロゴロ入ったチキンカレーが出てきた。「紀伊國屋名店会」のサイトにある店の紹介コメントには「昭和の味」とあるが、要するに純カレーをベースにしたものだ。今、「カレー」というと一般にはどのような味がイメージされるのだろうか。昨日、学食で食べたカレーライスは典型的な学食・社員食堂系のカレーライスだった。家庭で作るカレーライスも、市販の固形カレールーを使うとこれに似たような味に仕上がる。インド料理店のカレーは、「カレーライス」とは別系統という感じがする。一口に「インド料理」といっても、広大な国土を有する上に、世界中にインド人街があるといっても過言ではないほど「インド人」は広範に分布しているので、実は「インド料理」というものは存在しないはずである。それは「中華料理」や「日本料理」も同じことなのだが、店を経営する側も客の側も暗黙のうちに「インド料理」風の雰囲気のようなものを共有しているような気がする。以前にも書いたが、初めてインドを訪れた1985年2月中旬から3月中旬にかけて、私がインドで口にした料理は東京やロンドンの「インド料理店」で供されるものとは似て非なるものだった。それで、わずか1ヶ月ほどの滞在で体重を10kgも落として帰国したのである。食べ物のことになると話が最初に書こうと考えたことから離れていく一方になる。それで「ニューながい」のカレーだが、純カレーをベースにした味だ。「純カレー」と言っても若い人には想像がつかないかもしれないが、「インド人もびっくり」の固形カレールーが普及する以前は、缶入りのカレー粉に小麦粉を少し混ぜて炒ったものでカレーを作ったのである。「ニューながい」のカレーはその頃のカレーを彷彿させる。

腹ごしらえの後は紀伊國屋近くのヤマモトコーヒー店に行って、ペーパーフィルターを買う。レジで店の人がコットンペーパーのフィルターを紹介してくれた。そのときのやり取りのなかで、コーノとハリオの紙質の違いとか、紙ではなくコットン製の扱い方とか、いろいろな豆知識を教えていただいた。結局、コットンペーパーのものとハリオのものとを購入した。

まだ少し時間があったので、世界堂へ行って陶芸用品としてどのようなものが置いてあるのかを見てきた。スクーリングで使い残した粘土を持ち帰ったので、手轆轤があれば家でも手捻や紐作りで作ることができるのではないかと思ったのである。手轆轤は直径25cmのもので9,000円前後だった。今日は買わなかったが、家にあってもいいかもしれない。

さて、映画のことだが、18時30分の回は映画館入口の貼紙に反して空席のほうが多い。新藤兼人監督作品を観るのは今回が初めてだったが、そう感じなかったのは日経新聞の「私の履歴書」を読んだ所為もあるかもしれない。少し長くなるが、まずはいくつか引用しておきたい。

***以下、引用***
家の前に大きな田があった。二毛作だから稲株を起こして麦を作る。この稲株を掘り起こすのがお母さんの仕事だった。(中略)田の広さは目もくらむほどで、株は何万とあったが、お母さんは鍬をふるってまず一株へ打ち下ろすのであった。十五、六株起こすと家に帰って仕事をし、暇をみつけては田へ行って株を起こすのであった。(中略)
 そして、とうとうお母さんは最後の一株を起こすのであった。その粘り強いエネルギーを子供のわたしは何もわからなかったが、大きくなって、わたしが仕事をするようになって、しびれるほどの感動で思い出すのだ。お母さんはそのことを誰に誇るでもなく、やるべきことをやっただけだった。(2007年5月1日付 日本経済新聞「私の履歴書」新藤兼人 1 「母」)

 呉海兵団で衣服を与えられて海軍二等水兵が出来あがった。
 下士官が「貴様らは、これから特別任務につく」と百名を選び、夜汽車で出発した。行き先はわからない。
 朝、天理市に着いた。天理教の市である。天理教信者の宿が壮大に立ち並んでいた。年一度の大祭のために一道三府四十三県の宿舎が甍を連ねている。
 特別任務がわかった。この各県の宿舎を掃除するのである。国家総動員法によって海軍に接収され、予科練の宿舎となったのである。
 われら百名は作業に取り掛かった。畳を表に出して陽に当て、石灰を床下に撒き、畳をたたいてほこりを出し、元の所へ敷く。つまり大掃除である。蚤が畳に巣くっていて、夕立のごとく音をたてて跳びはねた。われらのケツは蚤に喰われて真っ赤になった。一ヶ月で掃除が済むと予科練が入ってきた。これでわれらの特別任務は終わり、次の任務が待っていた。
 クジを引いた。と言っても自分が引くのではなく上官が引く。六十名がフィリピンのマニラへ陸戦隊となって行った。残った四十名の内、三十名が潜水艦に乗った。
 マニラの陸戦隊はアメリカの潜水艦に撃沈されたということだが、潜水艦の三十名もおそらくやられたことだろう。
 残った十名は汽車に乗って宝塚に向かった。わたしもその中の一人だった。宝塚歌劇団のもつ宝塚劇場を予科練の宿舎にするための掃除である。各部隊からの寄せ集めで定員分隊は二百名近くになった。
 大劇場の客席は階段教室となり、大舞台は雨天体操場、中・小劇場は予科練の居住区になった。滋賀海軍航空隊宝塚分遣隊の看板があった。掃除が済むとまた転勤である。われら十名の内、四名が海防艦の機関銃手となって行った。百名が、とうとう六名になった。
 過酷な私的制裁が待っていた。隊の玄関には野球のバットをひと回り大きくした「直心棒」が掲げてあって、墨痕鮮やかに「大東亜戦争完遂を祈る」と書いてある。これで兵隊のケツを殴るのだ。暗闇の営庭に整列し姓名を名乗って、五箇条の御誓文のひとつ「軍人は忠誠を尽くすを本分とすべし」と股を開いてケツを突き出すと、上水の直心棒が唸りをあげてとんでくる。踏ん張りが悪いと吹っ飛ぶのである。五箇条だから五つ数えれば終わる。殴る兵も汗だくになり上半身裸となる。殴られたほうのケツは紫色だ。
 直心棒を食らう前に上水の演説がある。
「今夜という今夜は我慢がならないから、耳をほじくって良く聞け。太平洋でわが海軍は苦戦しておる。それはキサマらのようなコンニャクの化け物みたいな兵がおるからだ。キサマらはクズだ。何の役にも立たないクズだ。生きている値打ちもないクズだ」
 クズではない。国の命を受けて親兄弟妻子と別れてやってきた人間だ。
 直心棒は毎夜続いた。わたしたち雑兵のタマシイをたたき直すつもりである。だが、わたしたちは、アメリカと戦争するのではなく、帝国海軍と戦争だと思っていた。
 司令が朝礼で「ニューヨークで観艦式をやるんだ」と叫んでいた。(同15 「戦争」)

 乙羽信子と殿山泰司の役は、水のある島から水のない島へ水を運ぶ陽に焼けた農民である。伝馬船を漕ぐ技術と肥桶を天秤棒で担ぐ練習を一週間やった。桶にいっぱい水を入れないと天秤棒がしならない。あげ底をして誤魔化すことができないのだ。しなる天秤棒が労働の象徴であるとした。宿祢島へ登る稲妻型の道は百五十メートルもあった。この坂道を乙羽信子と殿山泰司は水をいっぱいに入れた肥桶を担いで毎日登ったのである。乙羽さんの肩は三度皮が剥けた。(同25 「裸の島」)

 乙羽信子の骨は、半分を墓の中に入れて、半分は「裸の島」の舞台となった宿祢島の海に撒いた。乙羽信子の作品はどれもこれも忘れられないが、とくに「裸の島」は深く心の中にある。肥桶を担いでください、と言うと何の躊躇いもなく乙羽信子は「はい」と言った。その担げもしない重い物を、乙羽信子は担いで坂道を上がって行ったのだ。(同29 「乙羽信子」)
***以上、引用***

おそらく「一枚のハガキ」という作品は「私の履歴書」、なかでも引用した部分がエッセンスとしてある。最愛の母の姿から得たもの、最愛の妻に教えられたこと、戦争という状況のなかで目の当たりにした人間の狂気的な部分、そうしたものを新藤はこの作品で描きたかったのだろう。主人公が戦後数年経て戦友の未亡人を訪ねる場面で、闇夜に「戦争は終わっていない」と叫ぶシーンがある。戦争というものは永久に終わらないものだと、私は思う。主人公の台詞は脚本を書いた新藤監督のそういう認識でもある、と私は思う。人の自我、社会集団としての自我あるいは文化というものは完結した世界だ。それぞれの世界の間尺に合わないものは排除されるようになっているのである。そうでなければそれぞれの「世界」が成り立たないからだ。映画のほうでは描かれていないが、「履歴書」のほうに書かれていた軍隊でのことを読めば、素朴な反戦というものには実体が無いことがよくわかる。未亡人が水を運ぶのに桶を天秤棒で担ぐシーンも示唆に富んでいる。もちろん、「裸の島」へのオマージュということはあるだろう。それに加えて、身体の小さな未亡人が担いでいるものを、漁師であり兵隊も経験している身体の大きな主人公が最初は上手く担ぐことができないのである。物事を進めるのは腕力ばかりではないということが語られているかのようだ。天秤棒のシーンと前後して、主人公と未亡人の住む里の世話役との間の殴り合いもあり、腕力の効果も認めている。主人公や登場人物たちの生死や生活を分けるのは、時にクジであったり、腕力であったり、知恵であったり、どれかひとつとうことではなしに諸々の集積なのだということだ。そして、ラストの麦畑を作るシーンが作品の世界の全てを凝縮している。芽を出したばかりの麦を踏みつける。麦は踏まれて強くなる。やがて黄金色の波のように麦が実る。生家の破産、愛した人の死、自我を貫くことでの葛藤、戦争という極端な状況、数え上げればきりがないほどの困難を乗り越えてきた人が、踏まれて育った果てに黄金色の収穫を迎えるのだ、というのなら、きっと生きるというのはそういうものなのだろう。