2009年4月から月1回の茶道教室に参加していたが、今日が教室の最終回だった。教室のあるギャラリーの改装と、その後の運営方針の変更のため、今回を以てその教室が終わりということになったのである。昨日、解雇通告を受けて茶道教室への参加継続が難しくなったところだったのは単なる偶然だ。茶道を覚えるというよりも、茶道を通じて仲間とか新しい知識を得るということに重点が置かれていたような印象のある教室だった所為かもしれないが、和気藹々とした楽しい教室だった。この教室に参加していた人は多少増減があったけれど、最終的には8名だった。このうち4名は先生がご自宅で開いている教室のほうに移るとのこと。私も誘われたが、昨日クビになったので、ということで辞退させていただいた。
以前にも書いた記憶があるのだが、私もいつか自分の工房とギャラリーを持ちたいと夢想している。どのようなものを扱いたいのか、ということはかなり明確にあるのだが、それは茶道具の世界の正反対のようなことだ。取りようによっては茶道批判と誤解されることにもなりかねないし、それは本意ではないので、ここでは具体的には書かない。最初から明確なイメージを持って工房だのギャラリーだのと夢見ていたわけではなく、陶芸を始めた頃からの様々な経験の蓄積を経て、自分のなかにあった当初のイメージもかなり変化してきた。今年1月に開催した自分の個展の時点からも若干の修正はある。やはり3月の震災とそれに続く原発をはじめとする様々な問題が生きることや生活というものを考える上で大きな衝撃になった。
偶然、「芸術新潮」最新号で見つけた記述だが、不定期連載を持っている内田樹が書いていることに私も親近感を覚えた。
「これからの社会で必要とされるのは、「選択と集中」や「分業と効率」ではなくて、「とりあえず、身の回りのありものを使い回して生き延びる知恵」ではないかというのが僕の持論だからです。」(「芸術新潮」2011年12月号 113ページ)
以前にも書いた記憶があるのだが、私もいつか自分の工房とギャラリーを持ちたいと夢想している。どのようなものを扱いたいのか、ということはかなり明確にあるのだが、それは茶道具の世界の正反対のようなことだ。取りようによっては茶道批判と誤解されることにもなりかねないし、それは本意ではないので、ここでは具体的には書かない。最初から明確なイメージを持って工房だのギャラリーだのと夢見ていたわけではなく、陶芸を始めた頃からの様々な経験の蓄積を経て、自分のなかにあった当初のイメージもかなり変化してきた。今年1月に開催した自分の個展の時点からも若干の修正はある。やはり3月の震災とそれに続く原発をはじめとする様々な問題が生きることや生活というものを考える上で大きな衝撃になった。
偶然、「芸術新潮」最新号で見つけた記述だが、不定期連載を持っている内田樹が書いていることに私も親近感を覚えた。
「これからの社会で必要とされるのは、「選択と集中」や「分業と効率」ではなくて、「とりあえず、身の回りのありものを使い回して生き延びる知恵」ではないかというのが僕の持論だからです。」(「芸術新潮」2011年12月号 113ページ)