熊本熊的日常

日常生活についての雑記

宝くじは宝なのか

2011年12月21日 | Weblog
昼に友人と食事を共にした後、戸籍のある自治体の役所へ出かけて用を済ませ、さらに法務局へ行く。夜に池袋で用があり、それまで時間が空いたので、埼玉県立近代美術館へ行って「アンリ・ル・シダネル展」を観る。池袋で用を済ませて夜8時半過ぎに帰宅。

昼を共にした友人は宝くじをほぼ毎回買うらしい。宝くじのほうは高額当選の経験は無いがTOTOのほうは10万円とか数万円を当てたことがあるそうだ。私は宝くじは買わない。当たることは無いだろうが、万が一、一等だとか二等だとかが当たったら困惑すると思うのである。もちろん当選したら嬉しいはずだ。例えば今3億円手にしたら、あくせく職探しなどしなくてもよい。尤も、それで安泰というわけでもないだろうから「あくせく」ではなく気長に職探しを続ける必要はあるだろう。そんなことより、300円のものが何の努力もせずに3億円になるということは許されてはならないことだと思うのである。確かに人は生まれることを選べない。命を授かることが何の前提もなく有り難いことであるかのように語られることが多いが、そういうことには違和感を禁じ得ない。違和感のことはともかく、生きていれば幸運と感じられることもあるだろうが、不慮の災難などいくらでもある。自分でどうこうできることなど、人生という限られた場においてすらひとつまみほどのことでしかないのかもしれない。災いは甘受して幸運は疑う、というのは偏った態度であるというのは承知している。しかし、自分のなかの自然な感覚として、降って湧いたような大金を手にするというのは、何かとんでもなく良からぬことが背後に控えているのではないかと疑ってしまうのである。生まれついての貧乏性と言われれば、その通りだろう。もちろん、自分が何か働きかけをした結果として3億円の報酬を手にするということなら、それは素直に受け入れることができると思う(経験が無いのであくまで想像だが)。私が言いたいのは、得体の知れないものを自分の世界に無闇に受け入れたくないということなのである。それは金銭だけのことではなく、人についても物についても言えることだ。