月に一回子供と会うとき、子供の方から要望が無い限り私が自分で行きたいところに連れて行く。今日は自分のなかで何カ所か候補があって少し迷ったが、天気に恵まれたので、新宿でセガンティーニ展を観て、食事を済ませてから、生田緑地にある日本民家園を訪れた。
私はセガンティーニの真髄は、大画面に広がる山々の風景の背後にある神を感じることだと思う。「神」というのはナントカ教の神様のことではなく、この世界を超越した存在というような意味だ。残念ながら、現在開催されているセガンティーニ展に並ぶ作品では、私のような凡人は神を感じることはできない。おそらく、山登りをする人が山に惹かれる理由と、セガンティーニの作品が人々を魅了する理由との間には通じるものがあるのではなかろうか。
日本民家園を訪れるのは初めてだ。実物の家屋を展示したものとしては愛知県の明治村とか江戸東京たてもの園が有名だが、これらで観ることができるのは著名人の住まいであったり、歴史的に記憶されるべきモニュメントのようなものであったりするのに対し、民家園は文字通り一般の人々の暮らしの場を展示している。結果的に農家が多いのだが、ここに展示されている大小様々の農家に共通していることがある。それはどの家にも客間があるということだ。ここにある古民家が建てられた時代まで遡らなくとも、「ハラがコレなんで」に登場するような、プライバシーというものがあるのかないのかよくわからない長屋などが当たり前に存在していた。現に私が3歳から12歳の直前まで暮らしていたのは、まさにそういう長屋だった。それでも親戚が訪ねてきて泊まっていくというようなことは当たり前にあったし、泊まらないまでも互いを訪ねあうということは自然なこととしてあった。それが、近頃の住宅は家族だけで占有することを前提にしており、あまり他人が訪ねてくるということを前提にした間取りは無いように感じられる。それどころか、妙に細かく部屋割りをして家屋のなかで家族を分断しようとしているかのような間取りに見えることが多い。昨今、引き蘢りだの、身内の死体を放置してその年金だけネコババするだのといった俄に信じ難いことを見聞するが、そうした家族という関係に発生する異常は生活の場である家屋の構造と関係があるのではないだろうか。そうした「事件」の域に達するようなところまでいかなくとも、円満な人間関係を構築できず仮想空間にしか生きる場を見出せない、というようなのも健康な状態とは言えないのではなかろうか。確かに他人との関係というのは煩わしいことが少なくない。しかし、他人との関係の上に成り立っているのが我々の生活というものだ。生身の人間との接触なくして自身の生活は存在し得ないのである。
人は生まれたときも死ぬときもひとりだが、その間も一貫してひとりというわけにはいかない。そこで教育というものがあり、他者との関わりを様々な形で学習するのである。一般には「教育」というと知識教育を指すようだが、死を前にして外界の刺激に反応できなくなる瞬間まで教育というものはついてまわると私は思っている。外界の刺激の最たるものは他者の存在だ。自身に自我があり自分の世界や文化を備えている以上、誰とでも上手く折り合いを付けることができるというわけにはいかない。文化や価値観というものは、体系を備えているので、本来的にその体系のなかに組み込むことのできないものを排除するようになっている。世に争いが絶えないのは、その端的な現象だ。しかし、争いは結果がどうあれ当事者は有形無形の傷を負うことになる。自己保存の法則に従えば、最も望ましいのは争いを回避することだ。そのための知識やノウハウを獲得する行為が教育であり学習なのだと思う。争いを回避するための最重要事項は自分自身を知ることだ。おそらく自分というものは最期までわからない。それでも、自分は何者なのか、どこから来てどこへ向かうのか、というようなことを探求する過程で見えてくるものがたくさんあるはずだ。それが人にとってなによりも貴重なことだと思う。
自分を知るというのは他人を知ることでもある。煩わしいからといって、他者との関わりを避けていては、無知蒙昧のままに世に浮遊するだけになってしまう。他者との接触を回避する城塞のような住宅に暮らしていては、惚けて終わるしかないだろう。古民家が我々に訴えるのは、素材の良さや造りの頑丈さではなく、今の自分自身の他者に対する姿勢がどうなのかということだろう。その意味で、多いに反省させられる日となった。
私はセガンティーニの真髄は、大画面に広がる山々の風景の背後にある神を感じることだと思う。「神」というのはナントカ教の神様のことではなく、この世界を超越した存在というような意味だ。残念ながら、現在開催されているセガンティーニ展に並ぶ作品では、私のような凡人は神を感じることはできない。おそらく、山登りをする人が山に惹かれる理由と、セガンティーニの作品が人々を魅了する理由との間には通じるものがあるのではなかろうか。
日本民家園を訪れるのは初めてだ。実物の家屋を展示したものとしては愛知県の明治村とか江戸東京たてもの園が有名だが、これらで観ることができるのは著名人の住まいであったり、歴史的に記憶されるべきモニュメントのようなものであったりするのに対し、民家園は文字通り一般の人々の暮らしの場を展示している。結果的に農家が多いのだが、ここに展示されている大小様々の農家に共通していることがある。それはどの家にも客間があるということだ。ここにある古民家が建てられた時代まで遡らなくとも、「ハラがコレなんで」に登場するような、プライバシーというものがあるのかないのかよくわからない長屋などが当たり前に存在していた。現に私が3歳から12歳の直前まで暮らしていたのは、まさにそういう長屋だった。それでも親戚が訪ねてきて泊まっていくというようなことは当たり前にあったし、泊まらないまでも互いを訪ねあうということは自然なこととしてあった。それが、近頃の住宅は家族だけで占有することを前提にしており、あまり他人が訪ねてくるということを前提にした間取りは無いように感じられる。それどころか、妙に細かく部屋割りをして家屋のなかで家族を分断しようとしているかのような間取りに見えることが多い。昨今、引き蘢りだの、身内の死体を放置してその年金だけネコババするだのといった俄に信じ難いことを見聞するが、そうした家族という関係に発生する異常は生活の場である家屋の構造と関係があるのではないだろうか。そうした「事件」の域に達するようなところまでいかなくとも、円満な人間関係を構築できず仮想空間にしか生きる場を見出せない、というようなのも健康な状態とは言えないのではなかろうか。確かに他人との関係というのは煩わしいことが少なくない。しかし、他人との関係の上に成り立っているのが我々の生活というものだ。生身の人間との接触なくして自身の生活は存在し得ないのである。
人は生まれたときも死ぬときもひとりだが、その間も一貫してひとりというわけにはいかない。そこで教育というものがあり、他者との関わりを様々な形で学習するのである。一般には「教育」というと知識教育を指すようだが、死を前にして外界の刺激に反応できなくなる瞬間まで教育というものはついてまわると私は思っている。外界の刺激の最たるものは他者の存在だ。自身に自我があり自分の世界や文化を備えている以上、誰とでも上手く折り合いを付けることができるというわけにはいかない。文化や価値観というものは、体系を備えているので、本来的にその体系のなかに組み込むことのできないものを排除するようになっている。世に争いが絶えないのは、その端的な現象だ。しかし、争いは結果がどうあれ当事者は有形無形の傷を負うことになる。自己保存の法則に従えば、最も望ましいのは争いを回避することだ。そのための知識やノウハウを獲得する行為が教育であり学習なのだと思う。争いを回避するための最重要事項は自分自身を知ることだ。おそらく自分というものは最期までわからない。それでも、自分は何者なのか、どこから来てどこへ向かうのか、というようなことを探求する過程で見えてくるものがたくさんあるはずだ。それが人にとってなによりも貴重なことだと思う。
自分を知るというのは他人を知ることでもある。煩わしいからといって、他者との関わりを避けていては、無知蒙昧のままに世に浮遊するだけになってしまう。他者との接触を回避する城塞のような住宅に暮らしていては、惚けて終わるしかないだろう。古民家が我々に訴えるのは、素材の良さや造りの頑丈さではなく、今の自分自身の他者に対する姿勢がどうなのかということだろう。その意味で、多いに反省させられる日となった。