明日から年末年始の休館に入る美術館が多い。今日は今年最後の美術館訪問だ。ほんとうは少し遠出をしてベン・シャーンでも観てきたかったのだが、アウトプレースメント会社で私の担当カウンセラーが今日が年内最終出勤日なので、今月分の交通費の清算手続きとご挨拶を兼ねて、例の黒砂糖を手に出かけることにした。必然的に都内の近場の美術館ということになり、竹橋の国立近代美術館を選んだ。今開催中の企画展は「ぬぐ絵画 日本のヌード1880-1945」とミニ企画で「VALERIO OLGIATI」だ。工芸館のほうに回る時間は生憎と無かった。
裸体画のほうはタイトルにある年代から想像できるように洋画作品だ。日本には春画の伝統がある。浮世絵は物理的な写実というよりも意識の写実なので、その春画となるとエロティックというよりも滑稽に近いものになる。興奮よりは「楽しそうでいいな」という感情の緩和を覚えることが多い。また、春画の多くは裸体ではなく部分的に露出している姿が描かれている。そして春画は観る者に気付きを与えるという側面もある。何に気付くかと言えば、その行為の際の己の意識のありようだ。
これが洋画となると、少なくとも緩和は無い。興奮というのとも違う緊張がある。それは裸体を描くことが目的ではなく、裸体を通して何事かを語ろうとする画家の姿勢が伝わってくるからだろう。例えば黒田清輝の「智」「感」「情」という3枚組の大作などを観ると、タイトルと絵との関連について考え込んでしまう。しかも、これは重要文化財だというので、もっと考え込んでしまう。
この夏に国立西洋美術館で開催されていた「古代ギリシャ展」でわかるように、裸体画であるとか裸体像というのは美の標準としての意味を持っている。当然、明治に西洋文明と共に西洋画を学んできた日本人画学生たちも、そういうものとして裸体画を日本に持ち込んだのであろう。それで「智」「感」「情」となるのだろうが、どうも画家のなかで十分に咀嚼された上で描かれているとは思えないのである。それは黒田の作品だけではない。
会場に掲示されていた説明で興味深かったのは、裸体を立った状態で描くものは、そこに生を表現し、横臥したものは死を暗示する、というような意味のことが書かれていたことだ。あくまで傾向的なことの説明であって、全部が全部そういうわけではないだろうが、なるほどそういうこともあるのかもしれないと妙に納得できるところがあった。例えば、性行為は、それを目的とするか否かは別にして、生殖行為、つまり生をもたらすものだが、そこにエクスタシー、つまりある種の臨死体験を伴う。裸で横になるという姿が暗示する性行為の真髄は生と死が交錯する瞬間にある、とも言えるだろう。「イク」を「行く」と読めば、行き先はあの世と言える。今の自分の生が、その瞬間に宿したかもしれない次の生に受け継がれる。それが性行為というものなのではないだろうか。となると、横臥する裸体、しかも行為の最中ではなく、抜け殻のように横たわる片割れは、やはり死の暗示と言えると、すっと納得できた。
それで結論としては、熊谷守一がいいなと思った。なにがどうということは言葉で語ることができないのだが、迫ってくるものを感じるのである。そこに自分が何を見ているのか、自分でもよくわからない。ただ、何かが迫ってくることは感じるのである。それは彼が目撃したという若い女性の礫死体と関係があるのかもしれない。
裸体画のほうはタイトルにある年代から想像できるように洋画作品だ。日本には春画の伝統がある。浮世絵は物理的な写実というよりも意識の写実なので、その春画となるとエロティックというよりも滑稽に近いものになる。興奮よりは「楽しそうでいいな」という感情の緩和を覚えることが多い。また、春画の多くは裸体ではなく部分的に露出している姿が描かれている。そして春画は観る者に気付きを与えるという側面もある。何に気付くかと言えば、その行為の際の己の意識のありようだ。
これが洋画となると、少なくとも緩和は無い。興奮というのとも違う緊張がある。それは裸体を描くことが目的ではなく、裸体を通して何事かを語ろうとする画家の姿勢が伝わってくるからだろう。例えば黒田清輝の「智」「感」「情」という3枚組の大作などを観ると、タイトルと絵との関連について考え込んでしまう。しかも、これは重要文化財だというので、もっと考え込んでしまう。
この夏に国立西洋美術館で開催されていた「古代ギリシャ展」でわかるように、裸体画であるとか裸体像というのは美の標準としての意味を持っている。当然、明治に西洋文明と共に西洋画を学んできた日本人画学生たちも、そういうものとして裸体画を日本に持ち込んだのであろう。それで「智」「感」「情」となるのだろうが、どうも画家のなかで十分に咀嚼された上で描かれているとは思えないのである。それは黒田の作品だけではない。
会場に掲示されていた説明で興味深かったのは、裸体を立った状態で描くものは、そこに生を表現し、横臥したものは死を暗示する、というような意味のことが書かれていたことだ。あくまで傾向的なことの説明であって、全部が全部そういうわけではないだろうが、なるほどそういうこともあるのかもしれないと妙に納得できるところがあった。例えば、性行為は、それを目的とするか否かは別にして、生殖行為、つまり生をもたらすものだが、そこにエクスタシー、つまりある種の臨死体験を伴う。裸で横になるという姿が暗示する性行為の真髄は生と死が交錯する瞬間にある、とも言えるだろう。「イク」を「行く」と読めば、行き先はあの世と言える。今の自分の生が、その瞬間に宿したかもしれない次の生に受け継がれる。それが性行為というものなのではないだろうか。となると、横臥する裸体、しかも行為の最中ではなく、抜け殻のように横たわる片割れは、やはり死の暗示と言えると、すっと納得できた。
それで結論としては、熊谷守一がいいなと思った。なにがどうということは言葉で語ることができないのだが、迫ってくるものを感じるのである。そこに自分が何を見ているのか、自分でもよくわからない。ただ、何かが迫ってくることは感じるのである。それは彼が目撃したという若い女性の礫死体と関係があるのかもしれない。