奇蹟とは何だろうか。不治の病とされていたものが快癒する、宝くじで高額賞金に当選する、絶体絶命の危機をふとしたことで乗り越える、人それぞれにイメージするものがあるだろう。あるはずのないことが起こることを奇蹟と呼ぶなら、我々の身の回りは奇蹟だらけではないかと私は思う。毎度のことで恐縮だが、そもそも自分が生まれてこの世にあるということが「奇蹟」だろう。人は生まれることを選べない。突然に生を与えられ、まるでそれを全うすることが義務であるかのような状況下に置かれるのである。あるはずがない、というのならこれほどあるはずのないことがあるだろうか。
この作品を観ていて考えたのだが、世に言うところの「奇蹟」というのは、かなえられそうにない己の願望がかなうこと、であるような気がする。煩悩の成就というか、欲望の発散というか、要するに神様にお出ましいただくような内容ではないように思うのである。そもそも神とは何か、と言い出すと際限の無い話になるが、私は神というのは人知を超えた世界をすべて引き受ける存在だと考えている。だからそれまで漠然と謎であったり奇蹟であったりしたものが、「科学」と称される合理性に則って説明のつくものになると、それは神の世界の手を離れて現世の常識となる。宗教と科学が対立するものであるかのような見方があるように感じられるのだが、対立するような間柄ではなく、むしろ連携している、と私は思う。にごり水を濾過して浄水となったものを世に供給する、その濾過過程を担うのが科学であり、にごり水の管理をするのが宗教、というようなイメージだろうか。ただ、それまで「神のみぞ知る」と言っていたものを急に「そんなの常識じゃん」と言ってしまっては、それこそ神とは何か、という宗教の存在の根底を問われることになってしまい、宗教にかかわる多くの人々の既得権が脅威に曝されるので、みんな焦るのだ。焦るから混乱が起こり、時として歴史に残る大騒ぎになってしまうのである。
世に宗教というものは数多あるのだが、洗練の度合いに差はあれ、執行組織があり、それが権威付けをした教義があり、教義に乗っ取った習俗がある、というのが共通した有り様ではないだろうか。結局、組織の運営は人の仕事であり、権威も人が考えたことである。絶対というのは幻想で、しかし、それを幻想と認めてしまうと権威の根底が揺らいでしまうので、それはタブーということにしてある。となると、ある宗教によって律せられている社会において最大の罪は、そのタブーに触れることとなる。この罪を犯したものはその社会から抹殺されなければならない、ということになり、そこに聖戦というような概念も必要になるだろうし、宗教裁判という浮き世の秩序とは別口の裁判制度も必要になったのだろう。
要するに、宗教というものには確たる根拠というものがあるわけではない。いわば本来的に多義性を内包している。つまり、その運用には解釈の問題がついてまわることになる。だから同じナントカ教であっても、様々な宗派というものが生まれることになり、時には宗派間で深刻な対立が生じたりすることにもなる。多義性があって対立がある、というところには政治が発生する。宗教にかかわるところには政治が寄り添うのである。現に世界を見渡せば政党名に宗教名が冠されている団体はいくらもあるし、なかにはそうした政党が与党になっている国もある。
それで映画の話だが、面白かった。ルルドという「聖地」に人々が「奇蹟」を求めて集まっているのだが、その「奇蹟」はあくまで個人的な事情に関する「奇蹟」である。当事者にとっては深刻な問題なのだが、果たしてそれは「神」が関与するような内容のものなのであろうか。おそらく集まっている人も多くを期待しているわけではなく、半分は観光を兼ねているのだろう。「聖地」という権威付けはなされているものの、そこにいる聖職者を含めて「奇蹟」が本当に起こるとは思っていないのである。だから、いざ「奇蹟」が起こると聖職者を含めて皆が動揺する。「動揺」の中身は多分に嫉妬であったり素朴な興奮であったり、それぞれの立場によって違うのだろうが、少なくとも平穏ではないのである。そうした「奇蹟」のありようを見事に描いた作品だ。
この作品を観ていて考えたのだが、世に言うところの「奇蹟」というのは、かなえられそうにない己の願望がかなうこと、であるような気がする。煩悩の成就というか、欲望の発散というか、要するに神様にお出ましいただくような内容ではないように思うのである。そもそも神とは何か、と言い出すと際限の無い話になるが、私は神というのは人知を超えた世界をすべて引き受ける存在だと考えている。だからそれまで漠然と謎であったり奇蹟であったりしたものが、「科学」と称される合理性に則って説明のつくものになると、それは神の世界の手を離れて現世の常識となる。宗教と科学が対立するものであるかのような見方があるように感じられるのだが、対立するような間柄ではなく、むしろ連携している、と私は思う。にごり水を濾過して浄水となったものを世に供給する、その濾過過程を担うのが科学であり、にごり水の管理をするのが宗教、というようなイメージだろうか。ただ、それまで「神のみぞ知る」と言っていたものを急に「そんなの常識じゃん」と言ってしまっては、それこそ神とは何か、という宗教の存在の根底を問われることになってしまい、宗教にかかわる多くの人々の既得権が脅威に曝されるので、みんな焦るのだ。焦るから混乱が起こり、時として歴史に残る大騒ぎになってしまうのである。
世に宗教というものは数多あるのだが、洗練の度合いに差はあれ、執行組織があり、それが権威付けをした教義があり、教義に乗っ取った習俗がある、というのが共通した有り様ではないだろうか。結局、組織の運営は人の仕事であり、権威も人が考えたことである。絶対というのは幻想で、しかし、それを幻想と認めてしまうと権威の根底が揺らいでしまうので、それはタブーということにしてある。となると、ある宗教によって律せられている社会において最大の罪は、そのタブーに触れることとなる。この罪を犯したものはその社会から抹殺されなければならない、ということになり、そこに聖戦というような概念も必要になるだろうし、宗教裁判という浮き世の秩序とは別口の裁判制度も必要になったのだろう。
要するに、宗教というものには確たる根拠というものがあるわけではない。いわば本来的に多義性を内包している。つまり、その運用には解釈の問題がついてまわることになる。だから同じナントカ教であっても、様々な宗派というものが生まれることになり、時には宗派間で深刻な対立が生じたりすることにもなる。多義性があって対立がある、というところには政治が発生する。宗教にかかわるところには政治が寄り添うのである。現に世界を見渡せば政党名に宗教名が冠されている団体はいくらもあるし、なかにはそうした政党が与党になっている国もある。
それで映画の話だが、面白かった。ルルドという「聖地」に人々が「奇蹟」を求めて集まっているのだが、その「奇蹟」はあくまで個人的な事情に関する「奇蹟」である。当事者にとっては深刻な問題なのだが、果たしてそれは「神」が関与するような内容のものなのであろうか。おそらく集まっている人も多くを期待しているわけではなく、半分は観光を兼ねているのだろう。「聖地」という権威付けはなされているものの、そこにいる聖職者を含めて「奇蹟」が本当に起こるとは思っていないのである。だから、いざ「奇蹟」が起こると聖職者を含めて皆が動揺する。「動揺」の中身は多分に嫉妬であったり素朴な興奮であったり、それぞれの立場によって違うのだろうが、少なくとも平穏ではないのである。そうした「奇蹟」のありようを見事に描いた作品だ。