仕事に続いて住む場所を失うところだった。今日は午後にインフルエンザの予防接種と歯科検診を予約してあったので、冷たい雨が降る中を外に出た。すると、家の前に3台の消防車と1台の指令車が停まっていた。隣の建物で小火があったらしいのだ。その建物は1階が靴店で2階より上が住居というものだ。今日はその靴店の休業日なので、どういう理由で火が出たのか気になるところではある。火事を通報したのは、近所の家具店のご主人で、私の部屋にある本棚はその店で買ったものだ。なにはともあれ、大事に至らなくてなによりだ。
インフルエンザの予防接種を済ませ、その後に歯科の定期検診と歯のクリーニングを受けた。このまま帰ってもよかったのだが、せっかく外出したので上野に回って、鈴本で寄席を聴いてから帰った。
夜の部が始まったところに着いたのだが、木戸銭を払ったりトイレに行ったりしているうちに開口一番の途中で席に着くことになってしまった。今夜は、来年秋に真打昇進が予定されている古今亭菊六が「粗忽長屋」を演っていた。客席はガラガラだが、平日の寄席はこれくらいのほうが高座と客席の距離が近く感じられてよい。尤も、経営側としては困った事態であろう。何年か前、といっても夜勤になって以降なのでこの6年以内のことではあるが、鈴本の平日昼の部を聴いたことが1回だけある。その時よりも今夜のほうが空いている印象だ。
今夜は菊六の後、伊藤夢葉のマジック、落語の蜃気楼龍玉、入船亭扇遊と続いて、大瀬ゆめじ・うたじの漫才、落語に戻って桂南喬、桃月庵白酒の「替わり目」で仲入りになった。仲入り後は三味線漫談の柳家紫、落語の柳家はん治、紙切りの林家二楽と続いてトリは五街道雲助の「宿屋の富」だった。寄席の場合、一人当たりの持ち時間が短めに決められているので、噺が少し粗めになる気がする。「替わり目」も「宿屋の富」も、なんとなく違和感を覚えるような出来だった。その点、はん治が演った新作「生け簀の鯛」は、噺の粗さを逆手に取ったような作りに仕上がっていて面白いと思った。三味線漫談というのは初めて聴いたが、いい味わいだ。三味線を持って喋っていても、三味線でなければならない必然性が全くないという人を食ったようなところがあり、かといって単に噺だけでは面白くもない小話が三味線のリズムを付けることで人を惹き付けるというのは、やはり紛れも無い芸ということになるのだろう。ある現象が、背景を変えることで全体の世界観まで変わってしまうというのは、けっこう身の回りにあるように思う。
ところで、伊藤夢葉は伊藤一葉の弟子だ。伊藤一葉はマジックの新しいスタイルを創り上げた人で、私が小学校の高学年の頃にたいへん人気があったと記憶している。学芸会のようなところで、伊藤一葉のマネをしてかなり受けたというようなこともあった。それが突然テレビで見かけなくなったのだが、昭和54年に胃癌で亡くなったということを、今日の夢葉の噺のなかで初めて知った。昭和54年といえば、テレビに出るようになってすぐのことだ。新しいことを創り上げるというのは並大抵のことではないが、それが世間に認知されるかされないかという微妙な時期に、自分の創意工夫の結果を見届けることなく世を去るというのは、心残りであったのではないかと思う。思うようにならないのが人生というものなのだが、「昭和54年」という没年を聞いたとき、妙な衝撃を感じてしまった。
インフルエンザの予防接種を済ませ、その後に歯科の定期検診と歯のクリーニングを受けた。このまま帰ってもよかったのだが、せっかく外出したので上野に回って、鈴本で寄席を聴いてから帰った。
夜の部が始まったところに着いたのだが、木戸銭を払ったりトイレに行ったりしているうちに開口一番の途中で席に着くことになってしまった。今夜は、来年秋に真打昇進が予定されている古今亭菊六が「粗忽長屋」を演っていた。客席はガラガラだが、平日の寄席はこれくらいのほうが高座と客席の距離が近く感じられてよい。尤も、経営側としては困った事態であろう。何年か前、といっても夜勤になって以降なのでこの6年以内のことではあるが、鈴本の平日昼の部を聴いたことが1回だけある。その時よりも今夜のほうが空いている印象だ。
今夜は菊六の後、伊藤夢葉のマジック、落語の蜃気楼龍玉、入船亭扇遊と続いて、大瀬ゆめじ・うたじの漫才、落語に戻って桂南喬、桃月庵白酒の「替わり目」で仲入りになった。仲入り後は三味線漫談の柳家紫、落語の柳家はん治、紙切りの林家二楽と続いてトリは五街道雲助の「宿屋の富」だった。寄席の場合、一人当たりの持ち時間が短めに決められているので、噺が少し粗めになる気がする。「替わり目」も「宿屋の富」も、なんとなく違和感を覚えるような出来だった。その点、はん治が演った新作「生け簀の鯛」は、噺の粗さを逆手に取ったような作りに仕上がっていて面白いと思った。三味線漫談というのは初めて聴いたが、いい味わいだ。三味線を持って喋っていても、三味線でなければならない必然性が全くないという人を食ったようなところがあり、かといって単に噺だけでは面白くもない小話が三味線のリズムを付けることで人を惹き付けるというのは、やはり紛れも無い芸ということになるのだろう。ある現象が、背景を変えることで全体の世界観まで変わってしまうというのは、けっこう身の回りにあるように思う。
ところで、伊藤夢葉は伊藤一葉の弟子だ。伊藤一葉はマジックの新しいスタイルを創り上げた人で、私が小学校の高学年の頃にたいへん人気があったと記憶している。学芸会のようなところで、伊藤一葉のマネをしてかなり受けたというようなこともあった。それが突然テレビで見かけなくなったのだが、昭和54年に胃癌で亡くなったということを、今日の夢葉の噺のなかで初めて知った。昭和54年といえば、テレビに出るようになってすぐのことだ。新しいことを創り上げるというのは並大抵のことではないが、それが世間に認知されるかされないかという微妙な時期に、自分の創意工夫の結果を見届けることなく世を去るというのは、心残りであったのではないかと思う。思うようにならないのが人生というものなのだが、「昭和54年」という没年を聞いたとき、妙な衝撃を感じてしまった。