落語に「代書」あるいは「代書屋」という噺がある。1938年頃に四代目の桂米團治が作ったものだ。米團治は落語家になる以前、代書屋を営んでいたこともあるので、あるいは自身の経験が下敷きになっている噺なのかもしれない。噺自体は演者によってバリュエーションがあるのだが、基本となっているのは就職のための履歴書を頼みに来た客と代書屋とのとんちんかんなやり取りの挙げ句に訂正だらけの妙な履歴書が完成するというものだ。今の時代は文字を書けないという人が殆どいなくなり、履歴書だの職務経歴書は自筆が基本になったが、それでも期せずして落語のような履歴書になってしまうこともあるかもしれない。落語は代書屋とのやり取りだが、応募先企業の担当者とのやり取りも落語に負けず劣らず滑稽な側面があるように思う。
就職活動を始めるに当たって必要なのが履歴書、職務経歴書、英文レジメの3点セットだ。求職者が求人企業と接触する際の最初の接点がこれらの書類なので、その書き方には読む側を意識したあの手この手が盛り込まれることになる。要するにこれらの書類は自分の宣伝だ。これほどの仕事をして、いずれにおいても素晴らしい実績を残したというようなことをあげつらうのである。冷静に見れば、馬鹿馬鹿しいことこの上ない。自分で自分を凄い奴というのはボケかカスと相場は決まっている。それが就職の段となると、誰もが大真面目にボケカスを演じるのである。それを演じるほうも演じるほうなのだが、そういう薄っぺらなもので採用を決める側も負けず劣らず間抜けということになるだろう。
LinkedInというSNSサイトがある。今まで私はその存在を知らなかったのだが、クビになったときに上司から「LinkedInに登録しているか?」と尋ねられ、「そんなもん聞いたこともない」と答えたら、彼から招待のメールが届いた。これはまだ英文版しかないのだが、自分の職務経歴を登録して就職活動に使うサイトである。求職者はもちろん、人材斡旋業者やフリーランスで仕事をしている人たちも登録していて、全世界で1億何千万人だかの登録があるのだそうだ。面白いのは、このサイト上でリファレンスレターのようなものを依頼したり応じたりでき、しかもそれらが公開されているのである。自分が知っている人たちが互いに褒め合っているのを読むと、本人たちには気の毒だが爆笑ものだ。
それでもそういうものを利用しないと職にありつけないというのなら、利用しないわけにはいかないだろう。生活をするというのは「同じアホなら踊らにゃ損損」というところも多分にあるものだ。人というものを目に見える形で表現するには、その人の属性や人となりの象徴となるようなことを細かい要素に分解し、その構成要素を言語化し、評価を与えなければならない。身体という物理的なものは、ある程度は言語化して表現できるだろうが、そうではないものをどのように表現できるだろうか。学歴、資格、家柄、閨閥、職務上の計数化可能な実績など、言語化できる要素をできるだけ多く列挙して表現することになる。「言語化」という言葉を使っているが、要するにデータ化して比較可能な形態にするのである。そうすることで、人は労働力商品のカタログに掲載され、労働力市場で流通可能となるのである。就職というのは労働力市場での事象である。この市場に流通しないことには、就職という事象には巡り会わないのである。
当然のことながら、労働力市場に流通している松本留五郎と、仕事抜きで付き合うときの松本留五郎とは、同じ人物であっても同じではない。片やデータであり、片や実在である。データ上の松本氏は誰にとっても同じものだが、実在の松本氏は人によって様々に認識される。松本留五郎が何者なのか、というのは実はどうでもよいことなのである。労働力としての松本氏に興味のある人は、そのデータに注目して想定される状況に応じた差配を考えればよく、松本氏その人に興味のある人は時間をかけてじっくりと付き合えばよいのである。間違いが起こるのは、データと本人を混同するからだ。本人というものはそもそも存在しない。関係性のなかで、松本留五郎という関係の結節点が形成されるのである。つまり、そこに絶対的な存在は無いのである。パラドクス的な言い方になるが、実在の松本留五郎は実在しない。それをデータが全てであるかのように錯覚するところから不幸が始まる。最大の不幸は本人が自分のデータを自分の全てと信じてしまうことだ。自らを薄っぺらなものに貶めることで、言語化されたものだけを絶対的なものとして信じてしまうという、逃げ水を追うような姿勢に陥ってしまう。落語の「粗忽長屋」を滑稽噺と思って聴く人が多いと思うが、あれと同じことを多くの人がそれとは知らずにやらかしているのである。
労働力商品の評価基準に用いられるデータを例に挙げれば、学歴とか資格といったものが評価対象になるのは、ある場面のなかだけであって恒久的なものではない。どれほど立派な学歴や資格があっても、それらには賞味期限があり、時期が来れば無視されるようになる。どれほど特定の企業のなかで実績を評価された人であっても、その評価が永久に持続するわけではない。時期が来れば、その人丸ごとデータとしては消去される。それでも生理的にその人の生命活動が続いていれば、社会の中でその人は自分の居場所を確保しなければならない。データとしての存在価値が無くなっても、人としての存在価値がなくなるわけではないはずだ。尤も、このあたりのことについては人それぞれに考えがあるだろう。
ただ、就職活動というものを始めるときに、最初に準備することが自分自身のデータ化であるということが意味することは、ひとりひとりがよく考える必要があるのではないだろうか。そのデータは自分の何なのか。自分とは一体何者なのか。
就職活動を始めるに当たって必要なのが履歴書、職務経歴書、英文レジメの3点セットだ。求職者が求人企業と接触する際の最初の接点がこれらの書類なので、その書き方には読む側を意識したあの手この手が盛り込まれることになる。要するにこれらの書類は自分の宣伝だ。これほどの仕事をして、いずれにおいても素晴らしい実績を残したというようなことをあげつらうのである。冷静に見れば、馬鹿馬鹿しいことこの上ない。自分で自分を凄い奴というのはボケかカスと相場は決まっている。それが就職の段となると、誰もが大真面目にボケカスを演じるのである。それを演じるほうも演じるほうなのだが、そういう薄っぺらなもので採用を決める側も負けず劣らず間抜けということになるだろう。
LinkedInというSNSサイトがある。今まで私はその存在を知らなかったのだが、クビになったときに上司から「LinkedInに登録しているか?」と尋ねられ、「そんなもん聞いたこともない」と答えたら、彼から招待のメールが届いた。これはまだ英文版しかないのだが、自分の職務経歴を登録して就職活動に使うサイトである。求職者はもちろん、人材斡旋業者やフリーランスで仕事をしている人たちも登録していて、全世界で1億何千万人だかの登録があるのだそうだ。面白いのは、このサイト上でリファレンスレターのようなものを依頼したり応じたりでき、しかもそれらが公開されているのである。自分が知っている人たちが互いに褒め合っているのを読むと、本人たちには気の毒だが爆笑ものだ。
それでもそういうものを利用しないと職にありつけないというのなら、利用しないわけにはいかないだろう。生活をするというのは「同じアホなら踊らにゃ損損」というところも多分にあるものだ。人というものを目に見える形で表現するには、その人の属性や人となりの象徴となるようなことを細かい要素に分解し、その構成要素を言語化し、評価を与えなければならない。身体という物理的なものは、ある程度は言語化して表現できるだろうが、そうではないものをどのように表現できるだろうか。学歴、資格、家柄、閨閥、職務上の計数化可能な実績など、言語化できる要素をできるだけ多く列挙して表現することになる。「言語化」という言葉を使っているが、要するにデータ化して比較可能な形態にするのである。そうすることで、人は労働力商品のカタログに掲載され、労働力市場で流通可能となるのである。就職というのは労働力市場での事象である。この市場に流通しないことには、就職という事象には巡り会わないのである。
当然のことながら、労働力市場に流通している松本留五郎と、仕事抜きで付き合うときの松本留五郎とは、同じ人物であっても同じではない。片やデータであり、片や実在である。データ上の松本氏は誰にとっても同じものだが、実在の松本氏は人によって様々に認識される。松本留五郎が何者なのか、というのは実はどうでもよいことなのである。労働力としての松本氏に興味のある人は、そのデータに注目して想定される状況に応じた差配を考えればよく、松本氏その人に興味のある人は時間をかけてじっくりと付き合えばよいのである。間違いが起こるのは、データと本人を混同するからだ。本人というものはそもそも存在しない。関係性のなかで、松本留五郎という関係の結節点が形成されるのである。つまり、そこに絶対的な存在は無いのである。パラドクス的な言い方になるが、実在の松本留五郎は実在しない。それをデータが全てであるかのように錯覚するところから不幸が始まる。最大の不幸は本人が自分のデータを自分の全てと信じてしまうことだ。自らを薄っぺらなものに貶めることで、言語化されたものだけを絶対的なものとして信じてしまうという、逃げ水を追うような姿勢に陥ってしまう。落語の「粗忽長屋」を滑稽噺と思って聴く人が多いと思うが、あれと同じことを多くの人がそれとは知らずにやらかしているのである。
労働力商品の評価基準に用いられるデータを例に挙げれば、学歴とか資格といったものが評価対象になるのは、ある場面のなかだけであって恒久的なものではない。どれほど立派な学歴や資格があっても、それらには賞味期限があり、時期が来れば無視されるようになる。どれほど特定の企業のなかで実績を評価された人であっても、その評価が永久に持続するわけではない。時期が来れば、その人丸ごとデータとしては消去される。それでも生理的にその人の生命活動が続いていれば、社会の中でその人は自分の居場所を確保しなければならない。データとしての存在価値が無くなっても、人としての存在価値がなくなるわけではないはずだ。尤も、このあたりのことについては人それぞれに考えがあるだろう。
ただ、就職活動というものを始めるときに、最初に準備することが自分自身のデータ化であるということが意味することは、ひとりひとりがよく考える必要があるのではないだろうか。そのデータは自分の何なのか。自分とは一体何者なのか。