リタイア暮らしは風の吹くまま

古希を迎えて働く奥さんからリタイア。人生の新ステージで
目指すは悠々自適で遊びたくさんの極楽とんぼ的シニア暮らし

共鳴するものがあるということは

2023年01月19日 | 日々の風の吹くまま
1月17日(火曜日)。🌧☁☂。何だかまだ夜なんじゃないかと思ってしまいそうな、暗い朝。公式には、日の出は7時59分なんだけど、地平線に厚い雲がかかっているから、朝日がいつ山の上から顔を出したのかわからない。何となくぐずぐずしていて、起き出したのは8時半。どういうわけか、2人揃って今日は水曜日だと思い込んでいたから、笑ってしまう。もしかして、ボケが入って来ているわけじゃないだろうな。これからまだやりたいこと、やることがたくさんあるんだから、ボケている暇なんかないのよ。

雨が小止みになった隙を突いて、10時にウォーキング。土曜日に珍しく17分を切ったけど、だいたいのところは17分台に落ち着いている感じ。距離は1マイル、つまり1.6キロで、ちょっと調べてみたら、歩いて20分以下なら平均的な速さ、18分以下なら速歩きということになるらしい。もちろん、年を取るにつれてスピードが落ちるそうだから、2人の年代で17分台なら、運動ウォークとして上出来だと言うことかな。帰って来て、ワタシはランチのチキンスープを作りにかかり、カレシはパロアルトのリリーと英語レッスン。アメリカに住んでいて、ボストンの大学院を出ているし、グリーンカードを申請している間、また大学院に戻って2つ目の修士号を目指して勉強中なので、今さら英語レッスンは必要なかろうと思うけど、これからまた論文を書くのに必要なレベルを維持したいということらしい。何年か前にサンフランシスコに遊びに行ったときに会ったけど、とってもいい子(と言っても、もう30半ばだけど)。最近の豪雨で、去年の秋に引っ越したばかりの新居の地下室が水浸しになってしまったそうで、これからの清掃と修復が大変そう。被害が大きくないといいけど。

☆☆今日も脚本の翻訳に熱中☆☆

1月18日(水曜日)。🌧☂☁🌥。また「こぶの日」。夜の間にかなりの雨風だったようで、起きた頃には灰色の雲が灰色の空をぶっ飛んでいたけど、1日が始まる頃には風が収まって、雨も小止み。午後には通り雨程度に収まるそうだから、ひと安心、良かった。今夜は、ワタシが個人スポンサー(の1人)になっているArts Clubの野心作『Forgiveness』(マーク・サカモト著、ヒロ・カナガワ脚色)のオープニングナイトなので、土砂降りの雨のせいで遅れたくないもんね。

この作品は、日系カナダ人の父と英国系カナダ人の母との間に生まれたマーク・サカモトが、第二次大戦中に「敵性外国人」として家族ごとロッキー山脈を越えてアルバータ州に送られ、農場での重労働と極貧生活を経験した父方の祖母と、兵士として志願して、香港陥落で日本軍の捕虜になり、日本の捕虜収容所での過酷な日々を生き延びた母方の祖父が、息子と娘の恋愛を通じて、いかにして家族としての強い絆を結んだかをまとめたもの。ベストセラーになって、それをArts Clubが札幌生まれのカナダの俳優/劇作家ヒロ・カナガワに
舞台劇としての脚色を依頼し、何年か前から上演が予定されていたんだけど、コロナのパンデミックで劇場が閉鎖されたために「順延」という形で棚上げになって、やっとコロナの規制が解けた今シーズンに舞台に乗ることになったという曰くつきの大作。

原作を読んでからずっと待ちかねていたオープニングナイトが今日。ワタシがカナダで暮らし始めて、勤めていた日系企業のオフィスに日系人がいて、ひとりはBC州内陸の収容所で生まれ、両親が強制送還に同意して日本に帰ったために日本で育ち、成人してから生まれた国に戻って来たナンシーで、もうひとりは、子供のときに日本で教育を受けるために東北地方の親類の許に送られ、戦争の勃発で帰ることができなくなり、そのまま大学を出て日本で就職した人で、プロ野球のピッチャーだったこともあるエディ。同時に、英国(その他)系のカレシと結婚したワタシは、義両親に息子の嫁と言うよりは養女のようにかわいがられて、「カナダ人」として育ててもらったという感慨があって、さらには過労で燃え尽きたときに、(たぶん)中年の危機でパニック状態だった(らしい)カレシがけしかけて来た(異文化にかぶれていない?)「純正日本人」を標榜するネット時代の若い女性たちの、今でいう「ネットいじめ」に遭って、それから10年も日本に行く気になれなかった時期があったから、この作品にはワタシなりのちょっと複雑な思い入れがあるわけ。

と書いていて、あはっと思い当たったのが、今夢中で翻訳している芝居がワタシの心に共鳴する理由。テーマは、喪失感を癒して前に一歩踏み出すことで、おもいやりや悲しみや喪失との付き合い、そしてそこから生まれて来る友情と愛によって新しい人生が開ける流れ(メロディ)を支えて持続させるのが音楽の「和音」。うん、ある意味、あれはワタシの精神的な喪失体験だったのかもしれない。芝居の中では、生徒であるピアニストの、亡き夫の「キミの手ではベートーベンは弾けない」という意味の発言や、(音楽家としてはライバルになり得る)妻のピアニストとしての成長を押しとどめようとするような態度が、「ずっと(精神的な)スペースが欲しかった」という台詞につながっている。で、きのう訳した最後の部分で、家の中の何かを変えてみたらどうかという先生の言葉に、「踊り場」を変えたいような台詞があって、なるほどっ。舞台ではL字型の階段があって、途中に広い踊り場と見上げるようなまっさらの壁があるんだけど、あれはピアニストが渇望する「スペース」の前に立ちはだかる無言の圧力を象徴していたわけか。舞台セットもストーリーを伝える「声」なんだってことだね。いやぁ、学ぶことが尽きなくて、芝居というもののとてつもない奥の深さがちょっと怖い気もするけど、とにかく勉強、勉強。ボケてなんかいられない。