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この日。
娘の結婚式で、学校に不在だった校長もまた、この未曾有の大惨事に呆然自失するよりなかった。
学校の最高責任者ではあるが、と同時に、私人としては、一家の長でもあるから、その拠所ない家庭事情による不在を責めることは誰にも出来なかった。
だが、校長も懊悩の日々を送った。
自らの不在の折には、信頼する教頭が学校を指揮してくれるし、ベテラン教諭もいるからこそ、安心して出張にも出れるし、私用による有休も取れるというものである。
しかし、この日。
その教頭もベテラン教諭も、子どもたち共々、津波に呑み込まれて亡くなった。
なんと、痛ましい災害であったことだろう…。
校長の憔悴加減は、九死に一生を得たA教諭のそれとも似ていた。
遺児たちの遺族への対応も日々、応じなければならなかった。
説明会の準備、非難されることの覚悟、マスコミへ晒されること…等など。
そのストレスは、胃に潰瘍を生じさせるほどのものであった。
この災害後、彼もまた、文字通りに、食べ物が喉を通らなかった。
・・・あの子も、あの子も、みんな、死んでしまった・・・。
平気で物が食べられる道理がない。
嫁いだ娘が心配して、父親の好物を買ってはしばしば実家を見舞ったが、どんなに努力しても、食べ物を前に嘔吐(えず)いてしまうその姿は、哀れというよりなかった。
それこそが当事者を襲った対象喪失ストレスであった。
だが、彼もまた、遺児や殉職した同僚たち、その遺族の手前、逃げて何処ぞへ引き篭もるわけにもいかなかった。
それが、管理職として採るべき責任でもあった。
彼もまた、公(おおやけ)の前に姿を現し、堂々と遺族の憤懣やる方ない思いを受け止めよう…と、そう決断した。
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