これは私の兄が、大学の山岳部で実際に体験した話だそうです。
ある年の冬山登山で、4人のパーティーが下山途中に猛吹雪に遭い、危うく遭難しかかりました。
1年生だった兄は心中
(ヤバイかも・・・)
と思ったそうです。
視界が1メートルもないほどの吹雪に遭い、あたりが白一色になるとホワイト・アウトといって、
自分がどこにいるのかわからなくなる方向喪失感や恐怖感に襲われるそうです。
4年生の部長でリーダーのMさんは、さすがにベテランらしく、そのあたりを心得ていたので、
まだ1年生だった兄を声で励まし、パニクらないようにしてくれた、といいます。
一行は進退窮まったその地点で雪洞を堀って数時間を凌ぎました。
しばらくすると、吹雪の中に日の光が薄っすら射してきて稜線が見えてきたので、リーダーは雪洞から出て前進する決断をしたんです。
4人は腰紐で互いに連結しながら一歩一歩と吹雪のなかを進みました。
視界はあいかわらず悪く、ひとつ間違えば全員が稜線から滑落して命を落としかねません。
すべては先頭を歩くリーダーのMさんに託されていました。
兄は、なんとか日没まで下山しないと4人とも凍死する・・・と、祈るような気持ちで歩いた、といいます。
どれぐらい経ってからか、先頭のMさんが
「おい、もう大丈夫だ・・・」
と、無精ヒゲを真っ白に凍らせた顔を振り向いて微笑みました。
兄がMさんの指さす方を見ると長兵衛小屋という小さな非難小屋が吹雪のなかにボンヤリと見えたのです。
(助かった・・・)
と兄は安堵したそうです。
4人はやっとの思いで非難小屋に入りました。
その後も、吹雪はやむ気配がなく、荒れ狂う風で小屋がミシミシ揺れたそうです。
Mさんが、
「今夜は、ここで夜明かしするほかないな・・・」
と一同に告げました。
日没の闇が迫っていたのです。
日帰り登山の計画でしたが、天候の急変で山で一泊することになったのです。
でも、マイナス20度ほどの屋外での野営ではなく、山小屋だったのが幸いでした。
命拾いした・・・と、素直に兄は思ったそうです。
長兵衛小屋は広さが八畳ほどの真四角の板張りでした。
もともと日帰り計画だったので暖を取るものは何一つなく、灯かりさえともすことが出来ずに次第に外は闇につつまれていきました。
小屋にたどり着いてからずっと4人は固まってモゾモゾとうごめきながら互いの体温で暖めあって何とか寒さを凌ぎました。
室内でもマイナス10度ほどはあるのでうっかり静止したままでいると凍傷になりかねません。
そうなると、その部分が真っ黒に壊死して落ちてしまいます。
リーダーが腕時計を見ると9時を過ぎていました。
普段なら、まだまだ宵の口でしたが疲れと緊張のピークを越えた4人には睡魔が襲ってきやすいことをMさんは経験で知っていました。
万が一、4人とも固まったままで寝てしまったら全員が凍死する危険性もあるとMさんは判断しました。
そこで、みんなにこう提案したのです。
「ひとつ、いい方法を思いついたんで聞いてくれるか?」
兄は懸命に眠気と闘っていた時、その声でハッと我に返ったといいます。
リーダーは冷静な声で続けました。
「このまま4人とも固まって寝てしまったら危ないと思うんだ。
だから、4人とも、部屋の四隅に散らばって、
俺から順番に次のやつを起こすから、起こされたやつは、次の角へ行ってそいつを起こすんだ」
兄は疲労と寒さと空腹でなかばボンヤリしながらリーダーの不思議な指示を聞いたそうです。
「そうして一晩中ぐるぐる回っていれば、起こされるまでは、ほんの少し眠れるし、何度も立って歩くから凍死せずにすむだろう・・・」
一同はリーダーの妙案に感心しました。
3年のSさんが
「さすが、リーダー」
と茶化すと、一同はやっと笑い合いました。
そして、鼻をつままれても分からないほど真っ暗闇の小屋のそれぞれ四方に四人は這いずるように散らばりました。
それから、リーダーを皮切りにそれぞれが闇の中を手さぐりで壁伝いに数歩進みながら、一晩中グルグルぐるぐると生きるための「サークル・ゲーム」をはじめました。
兄は真っ暗な角っこに体育座りでウトウトしているとSさんが来て肩をポンポンと叩いて起こしてくれました。
そして、今度は自分がMさんのいる角を目がけて闇の中を手さぐりで壁伝いに行きました。
その「サークル・ゲーム」は奇跡的に一晩中続いたそうです。
リーダーは7時を過ぎた頃に雪に深く閉ざされた木戸をほんの少しだけ開けてみると目がくらむほどの直線の光の束がほの暗い小屋のなかにガツンと射しました。
「オーイッ!
やんでるぞ!
吹雪がやんだぞーッ!」
とMさんはほとんど絶叫したそうです。
死んだ魚のような目をした三人も、その声でまた生気を取り戻しました。
一同は、慌ててしたくをすると小屋を離れ、真っ青に晴れ渡る空の下、ビカビカに反射する雪面に抗してサングラスをかけながら腰紐もなしに容易に下山しました。
スマホもケータイもなかった1970年代のことで、遭難先から連絡の入れようがなかった一行は、ふもとに降りるや否や、登山事務所にまっすぐ向かって全員無事に下山できたことを報告しました。
昨晩は、天候の回復後、消防団や青年団が山に出向く打ち合わせをした、という話も聞きました。
やれやれ・・・と、その場の山岳関係者一同は安堵の笑いにつつまれて、兄たちは駅から家路につきました。
電車のなかで、駅弁をむさぼるように食べ終えた一行に、ホッとして、ふたたび心地よい眠気が訪れようとしていた時でした。
2年生のKさんが突然、寝入ろうとしていた三人に向かって
「エーッ!・・・」
と悲鳴のような声をあげたんです。
何事かと、兄はビクッとしてKさんの青ざめた顔を見たそうです。
Kさんはリーダーの顔を見ながら
「おかしくないですか?
ねっ、先輩・・・。
おかしいですよ・・・。
おかしいよぉ~。
ぜったい・・・」
と言葉を振るわせたそうです。
一同はひとりでビビッているKさんが何に怯えているのか、かいもく見当がつきませんでした。
「どうしたの? 加藤・・・」
Sさんが訝しげに尋ねました。
「何が、おかしいんだ?」
リーダーがたまりかねた様子で口を挟みました。
Kさんは震えながら息を呑み・・・。
「だって、いいですか・・・。
ゆうべ、あの小屋には僕たち四人しかいなかったんですよ」
「そうだな・・・」
「それが変なんですよ・・・」
「どこがだ?」
「だって、考えてみて下さい」
そう言うと、Kさんは食べ終えたばかりの弁当箱をひっくり返して、底の四つ角のひとつを指さしました。
「ここに、僕がいるとしますね。
そして、次の角がSさんで、その次の角がY(兄)でしょ、で、次がMさん・・・」
一同は、ポカンとして震えるKさんの説明を聞いていました。
「まだ、わからないんですか?」
Kさんは、この先、ひと言も言いたくないというような口ぶりで切り出しました。
「真っ暗闇だったから、気づかなかったんですよ・・・」
「何を?」
Kさんは意を決したように泣き顔で言ったそうです。
「まず、リーダーが壁を手探りで伝わってきて僕の肩を叩くでしょ。
すると、僕が目を覚まして、次の角まで行って
Sさんを起こします・・・」
「うん」
「するとSさんは、Yのいる角に行って彼を起こします・・・」
「だな・・・」
そこで、兄は凍てついたそうです。
Kさんは兄の固まった表情を見て取って
「だろ?・・・」
と言いました。
「なんで、一晩もサークル・ゲームが続くんだよ~・・・」
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