『人生を遊ぶ』

毎日、「今・ここ」を味わいながら、「あぁ、面白かった~ッ!!」と言いながら、いつか死んでいきたい。

  

「ワンタイム・ワンシング」 (一時・一事)

2024-10-09 07:05:27 | 魂理学


きのうも、
予約JCが欠席したので、
生徒指導委員会のみで、
残り5時間は空いてしまった。

閑職というか
窓際族というか・・・(笑)。

ほいでも、
きちんと給与は貰えるので
申し訳なく思う。

\(_ _)

口さがのない
親しい先生からは、
クライエントの居ない日は
ボロ儲けですね、
と言われた事もある(笑)。

そういう時は
「カウンセラーと乞食は
三日やったら、やめられまへんなぁ・・・」
とか、
「カウンセラーと
保健室が暇なのは
エエ学校いうこってすわ」
なぞと
嘯いたりもしているぞなもし(笑)。

 



先日も
空き時間の有効活用法について
一考したばかりだが、やはり、
勉強と研究に充てるのが
至当であろうと
思いを改めたばかりである。

カラダには
あちこちガタが来ているし、
残り寿命もそう長くはなさそうなので、
本当に知りたい事の究明のため
時間を費やそうとは思っている。

仕事がらみでは、
臨床に役立つ新知見も
も少しは学び得たい。

「臨床・教育・研究」
の三本柱でいえば、
若い世代への指導・教育も
自分たち世代の責務である。

つい最近も、
養護教諭の方々に
経験知を伝授する機会が
幾度かあった。

不思議と
四十代へのそれが多いが、
その世代は、
高校教諭時代、最後の担任をした
世代でもある。

三十年の月日を経て、
得た学識や経験知を
その中堅世代へ伝授することが
最後の教育的なご奉公なのかもしれない。





きのうは、
届いたばかりの
ジャーナル(学会誌)に
目を通しながらも
カウンセリング室のソファで
毛布にくるまっていたら(笑)
カラダが温もるにつれて
首凝りと怠さが取れるのに気付いた。

外気温は18℃だったので、
エアコンの「自動」設定が
今季初の「暖房」を稼働させ、
室内はポカポカと23℃になっていた。

猛暑日続きだったこの夏。
35℃の外気温を
室内では23℃まで下げて
「涼しい~!!」
と、涼を感じていたのに、
同じ温度でも
「温か~い!!」
と感ずるのだから、
ヒトの感覚なぞ
いい加減なものである(笑)。



そいで、
「冷え」が自律神経失調症の
原因にもなってたんだなぁ・・・と、
実感させられた。

体内のすべての
生化学反応を媒介する
生体酵素の最適活性温度は
37℃付近である、
とは誰しも高校の『生物』で
習うことである。

また、それを
生物教師として
教えもしてきた。

だからこその
温浴効果や温泉効果が
療治的に効くのも道理である。

なので、ゆんべからは
厚手の冬用パジャマに
毛布にタオルケットを重ねて
寝てみた。

そしたら、
1時間ほどして目が覚め、
全身ビッショリの汗だくになり(笑)
下着からびしょ濡れになった・・・。

そんなにも寝汗をかたのも
久しぶりだった。

これで、新陳代謝が亢進し
スッキリしてくれれば
幸いだったのだが・・・。
今朝は更にぐっと冷え込み
17℃にもなっていたので、
凝り・めまい感が再燃した。

きょうはオフ日なので、
久しぶりに
名人に「揉み療治」をしてもらいに
出向こうかと考えている。

***

先日、11巻までを
まとめ買いした
『のぶ』を再読して、
ハートウォーミングな佳い作品だ
と再認識させられた。

レンタルで一読した時は
さほどでもなかったが、
再読で熟読玩味してみると
優れた創作物は
味わい深さを増す事にも気付いた。

これは、落語にも言える事で、
噺の筋は知っていても、
その語り口や登場人物たちの
活き活きとした様子は
繰り返し聞いても
味わいを感ずるのである。

もっとも、これは、
名人上手の語りに限るが・・・。

***
***


「私性」=「自意識」
という不可思議な現象を
「今、ここ」で刻々、体験している。

きのうは、
重い通勤鞄を携えて
雨上がりの地面を歩みながら
玄関に向かっている途中、
「ワンタイム・ワンシング」
(一時・一事)
というキーワードが
脳裏に浮かんだ。

そして、
何故に、私は貴方を体験し得ないのか・・・
という、命題にたち戻り、
今は私を生きているからだ、
という内なる応えに
納得したりもした。

そう。
今、お気に入りの
モーツァルトのCDを聴いてる時に、
同様に、お気に入りの
バッハのCDがあっても、
それは、一時に両方は
「楽しめない」のである。

物理的に、同時に、
鳴らす事は可能だが、
主体である「私」は
それを「心地よく」は
体験出来ないのである。

その喩えが、
「ワンタイム・ワンシング」
(一時・一事)
と結び付き
得心がいった。

無人の山中で
朽ち木が倒木しても、
そこに「聴き手」という
聴覚を備えた「主体」が
存在しなければ、
『音』は感知されない。

そこに在るのは
物理的な空気の振動のみである。

それでも、
倒木という現象は
「主体」なくしても
存在し得る「客体」的な現象である。

もっとも、
視認し得る観測者なしでは、
現象は可視化し得るのか・・・
という、量子力学的な
問題も生ずるが・・・。


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