オフ日のきのう、
ふと、京都的景観を見たい
と思い、久しぶりに、
文知摺観音を訪れてみた。
清明小の頃、
遠足で来た想い出がある。
その後にも
一度は訪れているが、
もう思い出せないほど
何十年も前になる。
なので、
今回の訪問で、
あらかた
配置が解った。
見所は多くあったが、
唯一、"京都っぽかった"のは、
木立越しに見えた
多宝塔の姿かもしれない。
他は、何処にも
「浄財」の賽銭箱やら
教育委員会の
「解説」立て看板があり
いささか興覚めだった。
芭蕉翁が句を吐いた地
としても有名だが、
その句碑があった。
早苗とる
手もとや昔
しのぶ摺(ずり)
「信夫摺(ずり)」とは、
平安時代以前に、
石の文様を草の汁で写しとった
草木染の布や
それで仕立てた衣を指す。
『奥の細道』には、
「里の童の来りて教へける」
として、
石は山の上にあったが、
人々が畑の麦を抜いて、
文知摺の技法を試すので、
住民が怒って谷へ落とし、
地面に埋もれた、
と書かれている。
それで、
芭蕉は落胆するのだが、
気を取り直して
「早苗とる手もとや昔しのぶ摺」
と詠んだという。
意訳すれば、
ここ信夫の地で
「忍ぶ摺」が行われていたのは
昔のこと、せめて、
早苗を取る早乙女の手元の所作に
それを偲ぶとしよう・・・
というようなことである。
芭蕉に同道した曾良は
五月女に
しかた望ん
しのぶ摺
と詠じている。
頃は1689年というから、
今から、332年前に、
俳聖がこの「福嶋」の地に
投宿している。
拝観の帰路、
『鳥政』で
夕餉の菜にと
ホルモン焼セットを
買ってこうかと寄ったら、
なんと、コロナの影響で
「当分ランチは休みます」
とのことで開いていなかった。
仕方なく、
稲荷神社の駐車場に戻ろうと
文化通りを歩いていたら、
『おかめや』の支店が
ランチをやっていたので
初めて寄ってみた。
オープン当時は、
「蕎麦居酒屋」みたいに
夜のみの営業だったが、
やはりコロナ禍で
業態チェンジを
せざるを得なかったのだろう。
ランチの
「小天丼+せいろ」は
1200円といい値段だった。
いちおう、
打ちたて、切りたて、茹でたて、
の「三たて」のようだった。
ただ、
カウンター席越しに見えた
厨房内の店主が
業者からの請求書なのか
封書類を俎板の上で
包丁で開封していたのは
いただけなかった。
そこで、
調理中に、
その道具で、
やる行為ではなかろう・・・。
如何に"いい蕎麦"を打つ
心意気があったとしても、
そういう処に
人(にん)の本性が
自ずと顕われるものである。
実際に、それで、
かなり食欲が減じたのも
言うまでもない。
ジャーナル(学会誌)の
新刊が届いたので、
午前中の数時間を
何篇かの論文に目を通してみた。
興味の惹かれる
初めての心理療法もあり、
実際の臨床で試してみようか
とも思った。
治験データも掲載されているので、
倫理的には問題はなかろうと思うが・・・。
***
コロナ禍に関した臨床事例を
学界HPに
アンケートの形で
投稿してほしいという
要請文も添付されていた。
昨年末に退職して、
まだ、社会復帰してない
アキが帰省して、
実家で羽を休めている。
SEのハード職で
心身的に疲弊したのか、
毎日、ちょっとずつ
問診してるが、
希死念慮はないものの
やや向社会的な意欲が
低下気味である。
一昨年の
フミの結婚式の時も
胃薬を呑んでいて
体調が悪そうだったので、
その頃から心身症っぽかった。
なにせ、
トーチャンが
立派な「うつ持ち」だし(笑)、
心身症も神経症もやったから、
遺伝的負因があり
心配している。
フミにも喘息が遺伝したし、
アキも喘息を発症したというから、
ほんに、申し訳ない気もしている。
***
玄関室礼に
アキの書いた色紙と
中学時代に製作した
紙製の手付筆筒を飾ってみた。
「あ~
ふるさとが
こいしいぜ」
といった心境で
帰郷して骨休めを
しているようだ。
なので、
美味いものを作って
食べさせている。
裏庭の柘榴が
二階の窓にまで
伸びてきたので、
ひと枝手折って
炭籠に活けてみた。
オレンジの花が
濃い緑葉に映えて、
明る寂びの
いい景色に見える。
***
『養老大人 箴言録』より~~
人間は常に変わり続けているわけですが、何かを知って生まれ変わり続けている、そういう経験を何度もした人間にとっては、死ぬということは特別な意味を持つものではない。
現に、過去の自分は死んでいるのだから。
*
苦痛にも何か意味がある、と考えるべきなのです。
苦痛を悪だと考えてはいけない。
そうでないと、患者は苦痛で苦しいうえに、その状態に意味が無いことになって、二重の苦しみを味わうことになる。
*
自動車に例えれば、扁桃体は社会活動に対するアクセルで、前頭葉はブレーキにあたります。
衝動殺人は、このブレーキを踏めない、即ち前頭葉がうまく機能していない人が行う犯罪。
その逆で、連続殺人は、アクセルの踏み過ぎ、つまり扁桃体が活発に働きすぎて犯してしまう。
*
サラリーマンというのは、給料の出所に忠実な人であって、仕事に忠実なのではない。
職人というのは、仕事に忠実じゃないと喰えない。
ふと、京都的景観を見たい
と思い、久しぶりに、
文知摺観音を訪れてみた。
清明小の頃、
遠足で来た想い出がある。
その後にも
一度は訪れているが、
もう思い出せないほど
何十年も前になる。
なので、
今回の訪問で、
あらかた
配置が解った。
見所は多くあったが、
唯一、"京都っぽかった"のは、
木立越しに見えた
多宝塔の姿かもしれない。
他は、何処にも
「浄財」の賽銭箱やら
教育委員会の
「解説」立て看板があり
いささか興覚めだった。
芭蕉翁が句を吐いた地
としても有名だが、
その句碑があった。
早苗とる
手もとや昔
しのぶ摺(ずり)
「信夫摺(ずり)」とは、
平安時代以前に、
石の文様を草の汁で写しとった
草木染の布や
それで仕立てた衣を指す。
『奥の細道』には、
「里の童の来りて教へける」
として、
石は山の上にあったが、
人々が畑の麦を抜いて、
文知摺の技法を試すので、
住民が怒って谷へ落とし、
地面に埋もれた、
と書かれている。
それで、
芭蕉は落胆するのだが、
気を取り直して
「早苗とる手もとや昔しのぶ摺」
と詠んだという。
意訳すれば、
ここ信夫の地で
「忍ぶ摺」が行われていたのは
昔のこと、せめて、
早苗を取る早乙女の手元の所作に
それを偲ぶとしよう・・・
というようなことである。
芭蕉に同道した曾良は
五月女に
しかた望ん
しのぶ摺
と詠じている。
頃は1689年というから、
今から、332年前に、
俳聖がこの「福嶋」の地に
投宿している。
拝観の帰路、
『鳥政』で
夕餉の菜にと
ホルモン焼セットを
買ってこうかと寄ったら、
なんと、コロナの影響で
「当分ランチは休みます」
とのことで開いていなかった。
仕方なく、
稲荷神社の駐車場に戻ろうと
文化通りを歩いていたら、
『おかめや』の支店が
ランチをやっていたので
初めて寄ってみた。
オープン当時は、
「蕎麦居酒屋」みたいに
夜のみの営業だったが、
やはりコロナ禍で
業態チェンジを
せざるを得なかったのだろう。
ランチの
「小天丼+せいろ」は
1200円といい値段だった。
いちおう、
打ちたて、切りたて、茹でたて、
の「三たて」のようだった。
ただ、
カウンター席越しに見えた
厨房内の店主が
業者からの請求書なのか
封書類を俎板の上で
包丁で開封していたのは
いただけなかった。
そこで、
調理中に、
その道具で、
やる行為ではなかろう・・・。
如何に"いい蕎麦"を打つ
心意気があったとしても、
そういう処に
人(にん)の本性が
自ずと顕われるものである。
実際に、それで、
かなり食欲が減じたのも
言うまでもない。
ジャーナル(学会誌)の
新刊が届いたので、
午前中の数時間を
何篇かの論文に目を通してみた。
興味の惹かれる
初めての心理療法もあり、
実際の臨床で試してみようか
とも思った。
治験データも掲載されているので、
倫理的には問題はなかろうと思うが・・・。
***
コロナ禍に関した臨床事例を
学界HPに
アンケートの形で
投稿してほしいという
要請文も添付されていた。
昨年末に退職して、
まだ、社会復帰してない
アキが帰省して、
実家で羽を休めている。
SEのハード職で
心身的に疲弊したのか、
毎日、ちょっとずつ
問診してるが、
希死念慮はないものの
やや向社会的な意欲が
低下気味である。
一昨年の
フミの結婚式の時も
胃薬を呑んでいて
体調が悪そうだったので、
その頃から心身症っぽかった。
なにせ、
トーチャンが
立派な「うつ持ち」だし(笑)、
心身症も神経症もやったから、
遺伝的負因があり
心配している。
フミにも喘息が遺伝したし、
アキも喘息を発症したというから、
ほんに、申し訳ない気もしている。
***
玄関室礼に
アキの書いた色紙と
中学時代に製作した
紙製の手付筆筒を飾ってみた。
「あ~
ふるさとが
こいしいぜ」
といった心境で
帰郷して骨休めを
しているようだ。
なので、
美味いものを作って
食べさせている。
裏庭の柘榴が
二階の窓にまで
伸びてきたので、
ひと枝手折って
炭籠に活けてみた。
オレンジの花が
濃い緑葉に映えて、
明る寂びの
いい景色に見える。
***
『養老大人 箴言録』より~~
人間は常に変わり続けているわけですが、何かを知って生まれ変わり続けている、そういう経験を何度もした人間にとっては、死ぬということは特別な意味を持つものではない。
現に、過去の自分は死んでいるのだから。
*
苦痛にも何か意味がある、と考えるべきなのです。
苦痛を悪だと考えてはいけない。
そうでないと、患者は苦痛で苦しいうえに、その状態に意味が無いことになって、二重の苦しみを味わうことになる。
*
自動車に例えれば、扁桃体は社会活動に対するアクセルで、前頭葉はブレーキにあたります。
衝動殺人は、このブレーキを踏めない、即ち前頭葉がうまく機能していない人が行う犯罪。
その逆で、連続殺人は、アクセルの踏み過ぎ、つまり扁桃体が活発に働きすぎて犯してしまう。
*
サラリーマンというのは、給料の出所に忠実な人であって、仕事に忠実なのではない。
職人というのは、仕事に忠実じゃないと喰えない。
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