『人生を遊ぶ』

毎日、「今・ここ」を味わいながら、「あぁ、面白かった~ッ!!」と言いながら、いつか死んでいきたい。

  

震災短編『太平洋ひとり』最終話

2022-11-06 09:33:17 | 創作

 

 眠り姫は、傍目には、気持ちよさげに海面に浮いていた。

 それは、高濃度塩水の死海で、仰向けに浮きながら本を読んでいる、あの奇態な姿のようにも見えた。

 

 意識を消失した里奈には、もう冷たさも痛さも孤独感も感じはしなかった。

 それは、彼女にとっても、高台で娘の無事を祈り続けていた母親にとっても、不幸中の幸いであったのかもしれない。

 

 里奈の体は、しだいに、オレンジ色の屋根の突端から離れだし、自ら海流に乗り始めた。

 その姿は、少しばかり閉じた「大」の字に近かったが、仰向けのままを維持していたことは、まだ生存への微かな可能性を残していた。これがうつ伏せになったら溺れて一巻の終わりである。

 今、この瞬間に、海からでも空からでも、何者かに発見されて、保温処置を受ければ、蘇生の可能性があった。

 だが、タイムリミットの砂時計は、ほんのわずかな残量しかなかった。

 

 閉じていた目蓋が微かに動いた。

 里奈の体は、失神後に、ノンレム睡眠を経ずに、入眠期レム睡眠に入ったようである。

 この時、多くの人は「入眠時幻覚」や「睡眠麻痺(金縛り)」を体験するものである。

 幸いなことに、彼女は、「幻覚」を見ることになった。

 

 天空にポッカリと浮いている自分がいた。

 体はヒンヤリしていたが、決して不快ではなかった。

 なんだかとても懐かしい気分に包まれていた。

 そう…。母親の胎内にいたときは、こんな感じだったのかも知れない。

 

 いくらか終末エンドルフィンが分泌されつつあった。

 脳内モルヒネは、確実に苦痛と恐れとを除去してくれていた。

 

 三月十一日

 午後五時四十六分

 高村 里奈の心肺は停止した。

 

 広い大海原は、すでに闇の中に没していた。

 暗い波間を、潮の流れに乗って、里奈はひとり、何処までもどこまでも、流れていった。

 

 

        

 

 

 


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