眠り姫は、傍目には、気持ちよさげに海面に浮いていた。
それは、高濃度塩水の死海で、仰向けに浮きながら本を読んでいる、あの奇態な姿のようにも見えた。
意識を消失した里奈には、もう冷たさも痛さも孤独感も感じはしなかった。
それは、彼女にとっても、高台で娘の無事を祈り続けていた母親にとっても、不幸中の幸いであったのかもしれない。
里奈の体は、しだいに、オレンジ色の屋根の突端から離れだし、自ら海流に乗り始めた。
その姿は、少しばかり閉じた「大」の字に近かったが、仰向けのままを維持していたことは、まだ生存への微かな可能性を残していた。これがうつ伏せになったら溺れて一巻の終わりである。
今、この瞬間に、海からでも空からでも、何者かに発見されて、保温処置を受ければ、蘇生の可能性があった。
だが、タイムリミットの砂時計は、ほんのわずかな残量しかなかった。
閉じていた目蓋が微かに動いた。
里奈の体は、失神後に、ノンレム睡眠を経ずに、入眠期レム睡眠に入ったようである。
この時、多くの人は「入眠時幻覚」や「睡眠麻痺(金縛り)」を体験するものである。
幸いなことに、彼女は、「幻覚」を見ることになった。
天空にポッカリと浮いている自分がいた。
体はヒンヤリしていたが、決して不快ではなかった。
なんだかとても懐かしい気分に包まれていた。
そう…。母親の胎内にいたときは、こんな感じだったのかも知れない。
いくらか終末エンドルフィンが分泌されつつあった。
脳内モルヒネは、確実に苦痛と恐れとを除去してくれていた。
三月十一日
午後五時四十六分
高村 里奈の心肺は停止した。
広い大海原は、すでに闇の中に没していた。
暗い波間を、潮の流れに乗って、里奈はひとり、何処までもどこまでも、流れていった。
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