
裏山を黙々と登って逃げたA教諭は、途中、倒木に行く手を遮られ、危うく倒れ掛かる木の下敷きになるところだった。
なるほど、あの七十名あまりの子どもたちをこの山へ一斉に避難させていたら、少なからず土砂崩れや倒木の犠牲者が出たかもしれなかった。
しかし…、それは、丸ごと津波に呑み込まれて、全員が犠牲になるより、数の上ではどれほどよかったか…。
今となっては、詮無い事であった。
津波襲来の時、逸早く隊列から離れて、機敏に山に駆け込んだ三年生の男の子も、ひとりだけ助かった。
彼は、裏山を抜けた高台に臨時避難所となっていた建物内で、一晩をA教諭と供に過ごした。
翌朝。
あの化け物のような津波が去った後は、まるで、原爆が落ちた直後のヒロシマやナガサキの風景をも思わす荒涼とした街の姿であった。
そこが、かつて街であったということは、辛くも鉄骨や基礎のみが残った建物の残骸で識ることができた。
まさしく、一帯は廃墟であり、人々の打ち砕かれた心もそれと同じであった。
三陸小は、一瞬にして、全校の児童と職員のほぼ八割を失った。
この平和な平成の御世において、学校災害として、これほど大規模な悲劇は前例がなかった。
よって、これは自然災害としての教訓だけでなく、多くの児童・生徒を預かる日本全国、いや、全世界の学校人が心に留めておくべき教訓とせねばならない大きな「学校事故」である。
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