『人生を遊ぶ』

毎日、「今・ここ」を味わいながら、「あぁ、面白かった~ッ!!」と言いながら、いつか死んでいきたい。

  

今日から夏休み

2016-07-21 08:09:00 | 風景
6才で幼稚園に入ってから
今日まで、一度も
学校社会を離れたことがないので、
53回目の夏休みである。

春・夏・冬に
きっちりと長期の学休期間がある
というライフスタイルに
すっかり馴染んでしまって、
一般企業人とは違った
感覚で生きている。

教員時代は
それでも休み中とはいえ
部活指導や表簿整理、
時間割作りなどで
出勤せずばならなかったが、
カウンセラーになってからは
年に丸々三ヶ月も休みがある。

「今日用(教養)と今日行く(教育)処が大事」
とは料理鉄人・道場さんの言葉だが、
ごもっともで、
所用を無理からでも創らねば、
連日、家に引き篭もることになり、
人格が崩壊してしまいかねない。

10年来のブロガーとしても
「デジカメ持って街に出よ、野に馳せよ」
である。



1学期最後の勤務だったK高の
観葉植物たちに
たっぷりと水遣りをしてきた。

8月中は隣室におられる
相談部の先生にお願いした。

着任来、
7年間育ててきて
大きく成長し
カウンセリング室に
癒しの緑を提供してくれているので
大事にしている。



家に収容しきれない書籍類を
ちょくちょく持ち込んでは
書棚の空きスペースに納めている。

いずれ転任する時には、
そのまま置いていき
寄贈しようと思っているが。

これまでも他校で
ずいぶんと沢山の
書籍類を置き去りにしてきた。

捨てたり
古書店に売るよりは、
学校で保管してもらうほうが
生徒や先生たちの
お役に立ってくれそうである。




三人息子たちが
幼児期にお世話になった
ヌイグルミも山とあるので、
捨てずに5校のカウンセリング室で
今も役立ってくれている。

「子ライオン」は
フミ(長男)が幼い頃、
動物園か何処かで
目が合って一目惚れして
お母さんに買ってもらった
という曰く付きのものだが、
長じて後、興味が薄れたようで
家に置き去りにされていた。




退勤時に、
玄関前の前庭に
ネジバナが二輪
咲いているのを見つけて
大好きな花なので
心が躍った。

雑草と見做されて
刈り取られることもよくあるが、
立派なラン科であって
この可憐な姿と色は愛らしくて
手折るのさえ憚られる。

学名の Spiranthes(スピランセス)は、
ギリシャ語の
「speira(螺旋)+ anthos(花)」
に由来する。

英訳すれば
「スピン・フラワー」である。


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ぐい呑

2016-07-20 06:28:00 | 趣味
今日は
1学期の終業式である。

明日から1ケ月もの
夏休みで、
嬉しい半分、
どうすべー・・・と、
途方に暮れるものもある。

子どもの頃のように、
夏休みだからって
手放しで喜ぶというわけには
いかない。

今の処、
スケジュールは
ポチポチとは埋まっているが、
ほとんどはブランク状態である。

研究や勉強、
製作、執筆、練習、遊び、
といった計画をも
立ててはいる。



昨日は、
8時半の出勤時間に
すでに家の前の
道路標示が28℃を示しており、
途中では9時前にして
30℃になった。

車中のエアコンを
マックスパワーで
噴き出させての走行だった。

福島は32℃になった。

空を見ると
雲の形と白さが
夏空のそれである。

関東まで梅雨明けしたが、
この分では、今日にも
東北も明けるやもしれない。

真夏で恐いのは
熱中症である。

毎年、一回は危うくなるので、
今年も十分に気をつけねばならない。

寝室のエアコンが古くなって
効きが今一なので、
この夏ちゃんともってくれるか
いささか心配している。




三連休中に
大陶器市に二回出かけて、
金城次郎窯(人間国宝)の
琉球壺屋焼・藤岡香奈子
(次郎さんの孫)の
海老紋ぐい呑をも
購入してきた。

手取りが軽く、
見込みの海老の線彫りも
軽快かつ勢いがあって
ここに透明の冷酒を浸したら
さぞかし風情があるだろうな
と思わせる逸品である。

二十年ほど前に、
水無瀬の「とらやま」で購入した
金城敏男(次郎さんの長男)の
魚紋と二つ揃えると
すでに引退した伯父さんと
若い姪っ子の作品であるだけに
なんだか微笑ましい。

かつて、
文房四宝の蒐集に凝っていた頃、
人間国宝の次郎さんの
水滴(硯に水を差す器)を
水無瀬の「とらやま」で2万円で
購入して所持していたが、
後に飽いてしまって
ヤフオクに出してしまった。

亡くなられてから
次郎さんのものは高騰し
今では、簡単に入手し難いので
惜しいことをしたと
少し悔やんでもいる。

沖縄の陶器店「まじる商店」の店主とも
福島での陶器市で親しくなって、
夜、共に「鳥政」に飲みに行ったり、
我が家の茶室にも寄ってくれたりした。

その際、色紙も二枚書いて頂いて、
時々、茶室に掛けたりもしていた。

店主からは面白い
次郎さんの逸話を数々伺った。

「次郎さんは、傘の骨で
ギャンギャン彫るんだよね」
というのが、
未だに印象深く残っている。

孫の香奈子さんの作品を見ると
伯父の敏男さんのおとなしい彫りに比べて、
たしかにギャンギャン彫ったような
迷いのない奔放さが伺える。

母親の宮城須美子さん
(次郎さんの長女)も
陶芸家であるので、
人間国宝の作風が
一族で護られているのは
頼もしい限りである。




陶器市で新物が
三つ増えたので、
この機会に、食器棚を整理し
不要のものは除いて
ぐい呑と徳利などの
酒器専用棚をこしらえた。

毎晩、晩酌で
今日はどの子でいくかなぁ・・・と、
その組み合わせを考えるのは
心踊る楽しいひと時である。


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ヤヤトト釣り

2016-07-19 06:36:00 | 釣り
先日、
郊外に出て
久しぶりに
我が家の〈秘密の釣り場〉に寄って、
稚魚の成育ぶりを見てきたら、
腕がムズムズしたので、
昨日、ワカサギ針を買って
釣りにでかけた。



この場所を見つけて以来、
アキやナツたちとも
何度、訪れたか分からない。

50cmはあろうかという
巨大なコイも数匹
悠々と泳いでいたが、
そういう巨大魚よりも
3cmほどのメダカのような
幼魚を釣る方が面白い。

台所でうどん粉を練って
ラップに包み、
ポリバケツを一つ持参して
赴いた。

数え切れぬほどの
稚魚が群れなして泳いでおり、
そこにエサを落としてやると
釣堀の魚のごとく
いっせいに喰らいついて来る。

その様は、まるで
アマゾンのピラニアの如きである。

だから、
ほとんど入れ食い状態で、
ものの20分ほどで
すぐに10匹も釣れてしまう。

いつも、
10匹釣れたら
ゲーム・オーバーという
自主ルールでやっている。

そして、
小さければ小さいほどイイ
というのもルールである。

5cmを超えるものが掛ると
チッと、舌打ちをする。

この日の最少値は、
3cmだった。



これはハヤの稚魚だが
成体になると十数cmにもなる。

こんな幼魚を針にかけて、
我ながら残酷だなぁ・・・と、
思いはするものの、
釣りも狩猟も養殖も
生き物の命を奪うことを
せざるを得ないのが
人の業でもあり、
ゲーム・フィッシングを
楽しむのもその業の肯定だと
自分に言い訳をした。



釣り上げた10匹は
久しぶりに水槽を掃除して
夏の間しばらく鑑賞することにした。

室内で観る
水草と若々しい幼魚の景色は
なかなか涼しげで
よき哉である。

これも一応はペットになるので、
当分は、毎日のエサやりも
しなくてはならない。

毎度のことながら、
魚たちが大きくなると
見飽き、飼い飽きてしまい、
近所の小川に放流してしまう。



釣り場には、
肉食のカジカの幼魚もいたので、
今度は、肉やら、ソーセージで
釣れないかトライしてみたいと
画策している。




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祇園祭り

2016-07-18 08:06:00 | 季節
昨日は、京都では
祇園祭りの山鉾巡行だった。

遅ればせながら、
玄関の設いを
月鉾の短冊に換えて
京の夏を偲んだ。 



京都在住中には、
宵山にも出かけたことがあるが、
それは人また人で
ゴッタがえしていて
通りなれた烏丸通りの
歩道を進むのに難儀したことがある。

それでも、生の音で
コンコンチキチという
鐘の音を耳にしながら
ライトアップされた鉾やら
女の子たちの浴衣姿には
京の夏祭りの風情が感じられた。

その感動や
祭りの空気感を
当時、色紙に描いてみたが、
帰郷してから短冊に仕立て直した。



赤穂在住の
元・同僚から頂いた
備前の蟹のぐい呑みに
ヤフオクで落札した
徳利を合わせてみた。

陶器を飾ったので
花入れは涼しげな竹籠にした。




毎年恒例の
全国陶器市に出かけて、
目ぼしいものを購入してきた。

備前のぐい呑みは
2.000円のが1.500円で購入できた。

京都五条坂での
陶器祭りにもよく出かけては
値切りの駆け引きを楽しみながら
よくいろいろと購入したものである。

備前のぐい呑みは
すでに6,7ケあるが、
それぞれに容(かたち)や
景色が違っていて
見飽きることがない。

このぐい呑みも
二重のくびれがあり、
呑口がうねった山道になっていて、
月を思わすような「牡丹餅」に
備前特有の窯変模様である「桟切り」が
月に寄り添う群雲のような
景色を見せてくれて
まことに風情がある。

齢七十の伝統工芸士・
猪俣政昭による作品である。

手の平に乗る小さな酒器だが、
そこにはまるで
炎が模った小宇宙を見るような
気宇壮大な逸品である。

これがスリーコインなのは
信じられないほどである。

(^.^) ホクホク!   

徳利の方は
笠間の作家・磯秀和が
信楽の土を用いて
登り窯で焼いた
焼き締めである。

釉薬を使っていないので
自然の土味がよく、
緋色とカセ具合の按配が佳い。

これは1.500円のものを
1.000円にしてもらった。

登り窯・自然柚・作家物を
ツーコインでなぞ
リサイクル店で
目の利かない店主が
安価の捨て値を付けた時でもない限り
手に入る代物ではない。

ヾ(*。>◇<)ノ゛ヤリ~!!

さっそく
二作品を水に漬けて
潤いを出した後に、
純米吟醸酒を入れて
晩酌を楽しんだ。

「これで、二千五百円かぁ~」
と、何度も
戦利品でお宝を勝ち得たような
感慨に浸りながら、
美酒に酔いしれた。

ヒ~! モウケタ~! _(_ _)ノ彡☆ バンバン!



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反法治社会

2016-07-17 07:42:00 | ノンジャンル
トルコでクーデターが
未遂に終わった。

市民や反乱軍に
数百人もの犠牲者が出たようだ。



現大統領が市民に
反乱軍を阻止するように呼びかけ、
戦車などを取り巻くように
市民が反乱戦士たちを
非暴力的に押さえ込んだ。

かつてソ連で起こったクーデターでも、
戦車の砲塔に花束を入れて
敢然と向かった老婦人の姿が
世界中に報道されたのを思い出した。

今回のトルコの反乱軍は、
市民に向けては
発砲しなかった模様だが、
中国の天安門事件では
民主化運動をする学生たちに向けて
人民解放軍が容赦なく発砲したのを
映像で目の当たりにしたことがある。

民主主義で選ばれた政権を
軍事力や暴力という「力」で
転倒させようというのは、
法治社会に対する挑戦であり、
それは恐怖政治社会への
歴史的退行である。

20世紀は
「戦争の世紀」とも
反省的に回顧され、
21世紀こそは
進歩した人類が
平和で輝かしい未来を
手に入れるだろうと期待されていた。

しかし、現実はどうだろう。

世界中で、連日のテロやら
情勢不安の混乱続きではないか。

人類は、二度の世界大戦を通じ、
多大な犠牲と不毛な結果の反省に立って、
国連を創設するに至り、
「対話」こそが最も叡智に富んだ
人間的手法である…と、
学んだはずである。

それが、ここにきて、またぞろ、
「武力解決」に退歩しているのは、
なんとも哀しい話である。

切りのない泥沼状態の
テロとの闘いを、
すでに第三次世界大戦は始まっている、
という見方もある。

ならば、今こそ、
世界市民が団結して
世界中の戦車の砲塔に
花束を入れる運動を
SNSをも利用してでも
やらねばならないのかもしれない。

まずは、
自分は何が出来るのか、
この夏休みに考えみたい。




フランスの
暴走トラック・テロは、
銃や爆弾を使わずとも、
通常の大型車で
人ごみに突っ込んでいくだけでも
百人近くの人を殺傷できる
ということをテロ予備軍に
知らしめた。

ISとの関連は定かではないが、
そのテロ行為の模倣としても、
影響が無関係とはいえないだろう。

最終的には
警察や軍に射殺されたので
自爆テロといえないこともない。

これは、心理臨床でよく見られる
「自傷他害」の自殺の変形でもある。

順番から言えば、
これからは
「他害自傷」と
言い換えたほうがいいだろう。

他者を殺し自分も死ぬ、というのは、
もっとも悲惨で救いようのない
暴挙であり、罪深い非道である。

銃社会であるアメリカでは
たびたび学校での
悲劇が生じている。

コロンバイン高校事件や
バージニア工科大事件も、
学友を何十人も射殺し、
最後は自殺するという
自爆テロ型の凶行である。



今回の犯人は、
精神を病んでおり、
社交性がなく、
発作的な破壊衝動があった、
と朝刊で読んだ。

臨床家として、
そういう人物は幾人も看てきたが、
いつも力説しているのは、
薬物療法と心理療法(カウンセリング)に
加えて、社会療法・・・即ち、
家族親族・学校・地域社会・福祉行政
などによるサポートという
三本柱によって支えられてこそ
反社会的アクト・アウトが未然に防げる、
ということである。

ここに於いても、
彼の「こころの砲塔」に
花束を入れる者が
必要なのである。



この処の、
世界規模での
殺戮事件の多さを観るにつけ、
生物学的な環境圧力も
関連しているのではないか、
と密かに感じている。

小型水槽内でミジンコを飼育すると
個体数増加により環境劣化が起こり、
その結果、個体数が右肩上がりから
一定量で頭打ちになる現象が観られる。

人口の増加による生存環境劣化は、
それがフィードバックされて、
人類自らを「間引く」という環境圧力が
目に見えず働いているのかもしれない。

日本の少子化現象と人口減も
いくらかミジンコと同様な
バイオ・フィードバックも
絡んでいるやもしれぬ。



脳内の気質的病理による
個人の発狂や狂乱の発生は、
人種民族に関係なく
あるパーセンテージで観察される。

殊に、昨今の
「他害自傷」のケースでは、
未開部族で突然に発狂した一人が
多くの同族を殺害し、
果ては同族から殺される、
というプリミティブな蛮行を
彷彿させる。

生物学者のライアル・ワトソンは、
この現象を「自殺の変形」と
捕らえていた。





トランプの台頭で、
アメリカも危ういナショナリズムに
染まりつつある。

国連海洋法条約に批准している中国が、
国際仲裁裁判の判決を
無視するという暴挙に出た。

国連常任理事国が
「法律なんかクソ喰らえ!
 オレ様がルールブックだ!」
とばかり、
国際法を遵守しない、
と世界に公言したのであるから、
ヤクザとも、ならず者とも、無法国家とも、
謗りを受けても致し方あるまい。

中国は法治国家ではなく、
一党独裁政権の
党治国家であり、
それは、ヒトラーの
ナチズムと変わりない。

チベット弾圧や
ウイグル族弾圧などは、
ポーランド侵攻から
欧州侵略を為した
ナチス・ドイツのスタイル
そのままである。

言論の自由もなければ、
報道の自由、信仰の自由も
中国にはない。

その国が世界第二位の
経済力を持ったものだから、
中華思想がさらに
自我肥大(インフレーション)
を起こしたのである。

中華思想とは、
ウィキによれば、
「中国が宇宙の中心であり、
その文化・思想が神聖なものである
と自負する考え方で、
漢民族が古くからもち続けた
自民族中心主義の思想。
漢民族とは異なる周辺の辺境の異民族を
文化程度の低い禽獣であるとして卑しむ」
という、
トンデモナイ自己中の
イデオロギーなのである。

これはゲルマン民族こそが
世界で最も優れた民族で、
ユダヤ民族は最も下等な民族、
と喧伝したナチズムと
同じ思想である。

話を人体に例えると、
心臓・肺・胃・・・と、
異なる機能・形態を持つ細胞が
組織化し、それぞれの器官を形成して、
それらが協調し合い、
一個の調和した個体を形成するなかで、
突然に発生したガン細胞が
際限ない増殖という勝手気ままな振舞いで、
果ては宿主の個体を滅ぼし、
自らも滅ぶという
「マッド・セル」(狂った細胞)の
命運を彷彿させる。

もっとも、
かつて日本も
軍国主義に国中が侵され、
アジアの民を塗炭の苦しみに
追いやったことも
忘れてはなるまい。



中国は、最近、
アジア・インフラ銀行設立をリードし、
自らにはちゃっかり
国連の悪権限である拒否権まで担保し、
おまけに、元総理でルーピー(奇人変人)の
鳩山由紀夫を引き入れて
これを洗脳し傀儡にして、
抗日プロパガンダに
利用しようとしているのが
見え見えである。

先日、亡くなった兄貴が、
愚弟の国益に反する暴挙を
幽界から未然に防いでくれることを
願わずにはいられない。

それがダメなら
『ゴルゴ13』にでも
お願いしようか。

おっと、自分の中にも
武力・暴力で排除しようという
「鬼」が顔を出してしまった。

誰の心中にも
「鬼」は棲んでいるので、
それと、どう向き合うか、
というのが人類的課題でもある。



愚かな弟「北朝鮮」を
御しきれない
「中国」という国もまた、
愚かな兄貴である。

そこに、
厄介な親戚のロシアも
同調しているから、
キナ臭い。









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