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昆明の醤油2

2009-05-17 22:09:29 | Weblog
写真は昆明市内の地蔵寺に伝わる大理国時代(938年~1254年)につくられた「経幢」と呼ばれる仏教の経文を刻した6角形の石柱。軽く人の背丈の2倍はある。丸みのある彫刻にはどこか南国風の風情も漂う。
(昆明市博物館にて。地蔵寺で長らく放置されていたものを1919年に外国人が見つけ、地蔵寺を公園として修築。1987年に公園を博物館として修築し、古幢を博物館の目玉としたという。現在、博物館の向かいの「古幢小学」の名にその名残が見られる。)

【醸造の本場・浙江省から】
 『昆明商業志』によると1949年より前に浙江省からきた商人が昆明に醤油の醸造技術を伝えたといわれています。その後、醤油工場は百花繚乱の時代を迎え、1956年には当時、昆明で有名だった大陸醤園、大通醤園、老同興醤園など6つの醤園が合体して拓東醤油の前進にあたる国営工場・大陸醤菜を発足させたとか。

(まるでどこかの国で醤油会社と同じですね。確かアメリカでの家庭用醤油シェア50%、国内30%〈キッコーマンホームページより〉を占める「キッコーマン」も市中の6つの醤油所が合体して、6角形の亀甲マークで象徴させた、という話もあります。)

その後、何度か名称変更を行い、やがて工場が拓東路にあることから拓東醤油の名で親しまれることとなりました。ちなみに2000年に工場は市郊外に移転しました。
【8世紀頃から受け継がれた由緒ある地名】
さて拓東とは、中国の唐代に雲南を支配していた南詔国(738年~902年)の昆明にあった城の名です。

長安を都とする唐からの数度の遠征で城は壊されましたが、何度か修復され、「南詔国」に次いで雲南を支配した「大理国」の時代には大理に次ぐ第2の根城となりました。

モンゴル族の支配する元朝に最終的に城は滅ぼされるのですが、道の名として残ったというわけです。実際、昆明商業の表玄関として数々の寺院や門が建てられ、元以降の遺跡がこの地には今なお、雲南にしては珍しく豊富に残されています。

(昆明市博物館があるのも拓東路です。ちなみに城内を碁盤の目状に整備する中国の都市計画により、道の名がすなわち地名の同義語として中国ではごく普通に使われています。京都でもそうですよね。) つづく

             

古幢の全景。誰でも間近でじっくりと観察できるのが魅力。石は砂岩で削りやすそう。もちろん、中国各地の習慣に基づき、この博物館でも写真撮影は自由。
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