写真は昆明動物園の象。地面が赤いので象も大地の色に染まっている。
【その歴史・淮南で野象数百頭が大暴走】
まず、象の生息地について考えてみましょう。
氷河期にまでさかのぼると日本でもナウマン象の骨が多数見つかるほど、大陸各地に生息していましたが、中国文明が形をなした殷の時代ごろは現在につながるアジア象もいまよりはるか北の方でも見かけました。(上田信『トラが語る中国史』山川出版社 2002年)
当時は黄河流域にも森があり、気候も温暖だったといわれています。
その後、寒冷化したとはいえ魏晋南北朝期の552年には長江と淮河の間に位置する淮南で野象数百頭が民家を壊した、という記事の他、象が都市に紛れ込む記事がたびたび登場します。
(「中国史の中のゾウ」http://d.hatena.ne.jp/indow/20071201%23p1)
これらの象は古くから戦闘にも使われていたようです。
秦の始皇帝の時代(秦始皇8年・紀元前239年)に完成した『呂氏春秋・古楽編』には
「成王立ち、殷の民反す。王、周公に之を践伐するを命ず。商の人、象を服して、東夷にて虐を為す。周公ついに師をもってこれを逐い、江南に至る。すなわち“三象”を為し、もってその徳を嘉す。」
(成王立,殷民反,王命周公践伐之。商人服象,為虐于東夷。周公遂以師逐之,至于江南。乃為“三象”,以嘉其徳。)
との記述があります。
内容は紀元前1046年ごろ、新興国の周が強国・殷に勝ち、統治し始めた頃。殷を倒した武王が死去し、まだ幼少の成王が王位に就くや殷の民が反乱をおこしたため、周の成王が周公に鎮圧を命じます。
そのとき商(殷の呼称)の人々が戦闘に象を用いたというのです。
「虐」という文字から象のもつ圧倒的な戦闘力に人々がなすすべもなかった状況が伝わってきます。
ただ、周公は鎮圧に成功して江南に至りました。この勝利を祝して楽曲「三象」が作られた、という話です。
東夷の場所ですが、当時も江南は長江の下流域のことらしいので、東夷はそのあたりより北の地域となります。長江より北で殷の人が象で戦闘を行っていたことになります。象を扱う技術があったのでしょう。
(つづく)
【その歴史・淮南で野象数百頭が大暴走】
まず、象の生息地について考えてみましょう。
氷河期にまでさかのぼると日本でもナウマン象の骨が多数見つかるほど、大陸各地に生息していましたが、中国文明が形をなした殷の時代ごろは現在につながるアジア象もいまよりはるか北の方でも見かけました。(上田信『トラが語る中国史』山川出版社 2002年)
当時は黄河流域にも森があり、気候も温暖だったといわれています。
その後、寒冷化したとはいえ魏晋南北朝期の552年には長江と淮河の間に位置する淮南で野象数百頭が民家を壊した、という記事の他、象が都市に紛れ込む記事がたびたび登場します。
(「中国史の中のゾウ」http://d.hatena.ne.jp/indow/20071201%23p1)
これらの象は古くから戦闘にも使われていたようです。
秦の始皇帝の時代(秦始皇8年・紀元前239年)に完成した『呂氏春秋・古楽編』には
「成王立ち、殷の民反す。王、周公に之を践伐するを命ず。商の人、象を服して、東夷にて虐を為す。周公ついに師をもってこれを逐い、江南に至る。すなわち“三象”を為し、もってその徳を嘉す。」
(成王立,殷民反,王命周公践伐之。商人服象,為虐于東夷。周公遂以師逐之,至于江南。乃為“三象”,以嘉其徳。)
との記述があります。
内容は紀元前1046年ごろ、新興国の周が強国・殷に勝ち、統治し始めた頃。殷を倒した武王が死去し、まだ幼少の成王が王位に就くや殷の民が反乱をおこしたため、周の成王が周公に鎮圧を命じます。
そのとき商(殷の呼称)の人々が戦闘に象を用いたというのです。
「虐」という文字から象のもつ圧倒的な戦闘力に人々がなすすべもなかった状況が伝わってきます。
ただ、周公は鎮圧に成功して江南に至りました。この勝利を祝して楽曲「三象」が作られた、という話です。
東夷の場所ですが、当時も江南は長江の下流域のことらしいので、東夷はそのあたりより北の地域となります。長江より北で殷の人が象で戦闘を行っていたことになります。象を扱う技術があったのでしょう。
(つづく)
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