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もう一人の雲南回族の功労者・沐英2

2013-07-14 11:19:33 | Weblog
写真は、昆明の西隣・宜良の市場の肉売り場。「老何羊肉館」とは、何さんの羊肉店、という意味。この売り場の奥には豚肉コーナーが見える。
 このように雲南では、多くの地域で当たり前のように羊肉を売るコーナーが設けられていることが多い。羊肉の煮物や鍋料理は大好物だ。値段も鶏肉よりもは高いが豚肉とさほど変わらない。
売っている人は人口が圧倒的に勝る漢族の人もいるが、回族の比率が高いようだ。

【必殺仕事人・沐英】
 前回、雲南開発の歴史を学び、発展に貢献しよう、というスローガンに掲げられた沐英は、元初期のサイジャチほどの傑物ではありませんが、やはり仕事人としては一流の人物でした。

 まず明(1368年~1644年)代初期、つまり元朝滅亡に長らく雲南に君臨していた元帝室筋の雲南王・梁王を洪武14年12月22日(1382年1月6日)に、直接的に死に追いやった武人です。
 といっても体育会系の武将タイプではなく、明の建国者・朱元璋の命令で雲南討伐の副将として命じられた仕事をやりとげた、今なら有能なサラリーマン社長、といったところでしょうか?

 出自は孤児です。(『明史』巻126、列伝第14 李文忠・鄭愈・湯和・沐英 ほか より)

 中国でも貧しい地域といわれる安徽省定遠の出身。幼い時に父が死に、母とともに戦乱の世を逃げまどっていましたが、その母も死に、一説では8才で孤児となりました。そんなとき、複数の戦争孤児の面倒を見ていた朱元璋夫妻が養子として引き取り、姓を(石扁+朱で一文字)と改姓させました。

(ちなみに朱元璋には実の子が男26人、女18人います。孤児を拾っては育てたのは、朱元璋自身も孤児出身の苦労人だからでしょう。当時は朱元璋配下の将軍級の人が遠征先で戦争孤児を拾うことは珍しくありませんでした。元末の中原地域は戦乱の世が長く続く、想像を絶するひどい世の中だったわけです。)

 小さな時から明敏で、事務仕事も滞ることなく確実。それでいておとなしい子だったため、皇后はしばしばその才能をたたえ、朱元璋は「器が重い」と認めていました。   (つづく)

*沐英は、短めに終わる予定でしたが、彼の兄弟も含め、なかなかの運命の変転の持ち主なので、少し詳しく見てみます。毎日、猛暑ですが、お付き合いください。
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