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個旧の米線店にて。値段が安いだけあって食堂部分は乱雑だが、厨房は昆明市内の一流店にも劣らぬ清潔さで、鶏を骨ごとじっくりと煮たスープをベースにニラなどを載せていただく、正統派。スープは濁りがなく、すっきりとした味わいとなっている。うまい。
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個旧の人々の箸さばきも見事で、日本の落語界の人がそばをすするような、しゃきっとした型がある。全体に人々の目が鋭く、勢いがある。街に到着したときは目線や態度を怖いと感じたが、次第にきびきびとした動きに気持ちよさを覚えていった。鉱山の街、というのはこういうものなのだろうか。
【いよいよ昆明入り】
こうして、デン越鉄道で直接、昆明と結びついてから10年後の1920年。個旧から昆明へと過橋米線を武器に進出した人がありました。個旧出身の孫法です。彼が昆明に「仁和園食館」を開いたのが、過橋米線が昆明に伝わった初めての記録です。なぜ、蒙自や建水ではないのか、というと、通説ではそれ以前の光緒年間(1875~1909年)に個旧に伝わっていたのだろう、とのこと。錫で一山あてて、気性も山師のような人々が今なお闊歩する個旧。ここの出身の人が、まず昆明に乗り込む、というのは大いに頷ける話です。
また「過橋米線は(昆明には)光緒年間に伝えられ、三牌坊で開いたのが最も早い。」との説が『昆明市志長編』巻6に記載されていました。三牌坊は当時、昆明で唯一の西洋料理店もあるほどの繁華街。(今も昆明も昆明の中心的百貨店が並び立つ場所の一角となっています)そこで新メニューとして過橋米線を売り出すというのも、昆明に広めるわかりやすい戦略で、いかにもありそうです。
建水、蒙自あたりで発明された過橋米線が、欧米列強による錫の覇権争いたけなわの個旧で力を蓄えた民間人によって、デン越鉄道で往来のしやすくなった昆明へと伝播し、次第に広まった、といえそうですね。
昆明の郊外にも農家楽が沢山ありますが、下水道問題が深刻で、昆明市民の飲み水用ダムの近くにまで汚水がきている、とのことです。
過橋米線ですがスープは鶏のスープで正統派ですね、私には真っ赤なのも良いのですが透明なのも美味しいと思います。
「さくらんぼ 母と来た道」は残念ながら見逃してしまいました。雲南三部作の一つだと思います。花腰新娘はDVDで見ましたが。
ステレオタイプの貧しさはそういう面もあり、また貧しくてもそれを感じさせない人もいるように思います。(当方 田舎で感染症の人の治療の面倒を見ましたが払えないので私がみるしかありませんでしたが 感謝などありませんでした。)とにかく貧しさという視点から見ると生きていく為に何でも有りのようです
文山から車で何百キロのところで完璧な観光地化とは、本当にすごいことですね。あちらの文化局の人と宴会をしたとき、「ぜひ、日本にも紹介してください」といっていたのですが、「あそこじゃ、アクセスがあまりにも悪すぎる」と同席した10人ばかりの人々はあきらめ顔でした。私は娘が風邪気味だったので、行くのをあきらめて広南に残っていたのです。
先日、雲南の棚田で有名な元陽が舞台の「さくらんぼ 母と来た道」という映画を見ました。日本のスタッフも関わっていて「これが貧しい雲南だよ」っていうイメージの押しつけが随所にみられたところが難点でした。
どうも雲南の人は外からの視線に敏感で、こういうイメージ、といわれると、ノリノリで演じてしまうことろがあるように思います。
それが本来の伝統から、外れていく原因なのでは、と思うのですが。
村の人たちの表情はどうだったのでしょうか?
先日 広南の(土貝)美に行ってきました。昆明から車で丁度1日、長いトンネルを小船で抜けて村に着くのですが典型的な観光地になっていました。